クトゥルー神話年代記(雑誌版) 第1回
(本稿は、三才ブックスの『ゲームラボ』誌に寄稿した記事の原稿に、誤字脱字や用語などの若干の修正を加えたものです。公開にあたっては、編集担当氏の同意をいただきました。なお、本稿に加筆したものが、同社の『ALL OVER クトゥルー』に掲載されています)
〈クトゥルー神話〉への招待
英ブリチェスター大学大学院で考古学の博士号を取得し、"Egyptian Relics in the British Isles"(同大学出版局)などの著作が知られる新井沢ワタル氏は、この分野の数少ない研究者として、九〇年代末期より精力的な探索を続けている。本稿は、その新井沢氏より委託された未発表草稿を再編集したものである。
「クトゥルー神話」あるいは「クトゥルーその他の神話」について、この神話を好んで創作の題材として取り上げた20世紀前期のアメリカ人作家H・P・ラヴクラフトは、「戯れに地球上の生物を創造した『ネクロノミコン』中の宇宙的存在にまつわる神話」と総括している。クトゥルーというのは、この異形の神話大系に登場する神々の一柱である。さほど高い序列の神ではないため、「ヨグ=ソトース神話(ヨグ=ソトーサリー)」の呼称の方が適切だとする意見もある。しかし、学術的研究における先行性、そして人間社会に与える危険性により、今日、「クトゥルー神話」の語が定着している。
用語としての「クトゥルー神話」の初出は、ハロルド・ハドリー・コープランド教授が1906年に発表した論文『ポリネシア神話――クトゥルー神話体系に関する一考察』と思われる。20世紀初頭、環太平洋地域の島々の神話や民間伝承の比較研究に取り組んでいたコープランド教授は、広漠な海に隔てられたこれらの島々に、はるか太古に波の下へと沈んだ「ムー」と呼ばれる失われた故郷にまつわる非常に似通った伝承が存在することに着目した。この論文は考古学会において静かな反響を呼び、セントルイスで1908年に開催されたアメリカ考古学会の席上でも、ある事情によって「クトゥルー」が話題になったと記録されている。
コープランドはといえば、新たに見出したテーマにすっかりのめりこんでしまった。彼は論文発表の翌年から世界各地の図書館や稀購書蒐集家に連絡を取り、『ネクロノミコン』『無名祭祀書』『ナコト写本』『ポナペ教典』『ルルイエ異本』『タンガロア、その他の太平洋の神話』などの書物(一部は写し)をかき集め、1909年からはカロリン諸島のポンペイ(ポナペ)島を拠点にフィールドワークを開始した。彼はこの研究成果を『『ポナペ教典』から考察した先史時代の太平洋海域』と題する論文にまとめ、1911年に発表するのだが、以前の論文とは異なり、学術界からの反応は困惑に満ちていた。考古学会からの退会を余儀なくされたコープランド教授は、悲惨な結果に終わった中央アジア遠征の後、1918年に狂乱して精神病院に入り、1926年に孤独な死を迎えている。
関連作品:
リン・カーター『クトゥルーの子供たち』(エンターブレイン)
H・P・ラヴクラフト「クトゥルーの呼び声」(『クトゥルーの呼び声』(星海社)に収録)
叛逆の双神
「クトゥルー神話」とはいかなるものか──それを最大公約数的な言葉でまとめると、「人類が誕生する以前のはるかな太古に、宇宙や異次元から地球を訪れ、この星を支配していた怪物的な存在を巡る物語群」ということになる。太古の人間や異形の種族から神として崇められたクトゥルーやヨグ=ソトース、ナイアルラトホテプなどの名で呼ばれるこれらの宇宙的存在は、現在では地球内外のそこかしこの場所に潜み、あるいは眠りについている。
これらの〈神々〉の多くは、地球上の生物の誕生に深く関わる一部の存在を含め、人類の繁栄や価値観には無関心である。しかし、『ネクロノミコン』をはじめ、地球の禁断の歴史を記した禁断の書物の内容を信じるのであれば、地球は入れ替わり立ち替わり異形の神々や種族が訪れる、実に賑やかな場所だった。ミスカトニック大学のアルバート・N ・ウィルマース教授による報告では、〈ユゴス〉と呼ばれる太陽系外縁の惑星を中継して地球に飛来する菌類に似た宇宙生物が、1億年以上前から特殊な鉱物の採掘を続けているというというが、額面通りに受け取れる話ではない。これほど長い年月をかければ、地球という惑星そのものが堀り尽くされてしまうだろう。
19世紀のドイツ人神秘学者フリードリヒ=ヴィルヘルム・フォン・ユンツトが著した『無名祭祀書』は、この問題にひとつの回答をもたらしてくれる。フォン・ユンツトによれば、地球という惑星は本来、この物質世界とは異なる、強大な力を持つ存在が住まう別の宇宙に属していた。
この存在を、仮に〈旧き神〉と呼ぶことにしよう。時間の始まりから間もなく、〈旧き神〉たちは自らの従僕として二つの怪物的な存在を生みだした。一方の名をアザトース、もう一方の名をウボ=サスラという。これらは共に両性具有ないしは複数の性を有しており、〈旧き神〉たちに仕えるべき更に多くの生物たちを生みおとす役割を与えられていた。
しかし、彼らは造り主に叛逆した。
まず、ウボ=サスラが神々の知識が刻印された〈旧き記録〉を盗み出した。『ネクロノミコン』によれば、〈旧き記録〉はローマ人がケレーノと呼んだおうし座16番の付近にある無明の世界に保管されていた。ウボ=サスラは、現在、地球と呼ばれるこの星の地底にある彼の棲家、灰色に照らし出されたイクァアに〈旧き記録〉を隠匿した。そして、怒り狂う〈旧き神〉たちが〈旧き記録〉の在り処を突き止めたまさにその時、ウボ=サスラはこの記録から学び取った宇宙的な力を行使し、地球とその原初の住人たちをこの宇宙へと落下させたのだった。〈幾十億とも知れぬ永劫の昔〉のことである。
ウボ=サスラの叛逆から間もなく、アザトースとその眷族たち──ナイアルラトホテプ、ヨグ=ソトース、サクサクルースなどの異形の存在もまた、〈旧き神〉に対して反旗を翻し、宇宙の最外縁部から現在地球の存在する領域に侵入し、星々の海に広がり始めた。彼らはその途上で、さらにおぞましい眷族を生み落としていった。なお、アザトースの三柱の御子については、ヨグ=ソトース、サクサクルースではなく〈無名の霧〉〈闇〉とする系図も知られている。
この系図では、〈無名の霧〉の子がヨグ=ソトース、〈闇〉の子がシュブ=ニグラスとなっている。
関連作品:
リン・カーター「ネクロノミコン」(『魔道書ネクロノミコン外伝』(学研パブリッシング)に収録)
H・P・ラヴクラフト「ダンウィッチの怪異」(『『ネクロノミコン』の物語』(星海社)に収録)
H・P・ラヴクラフト「狂気の山脈にて」(現在翻訳中)
C・A・スミス「ウボ=サスラ」(安田均・編『魔術師の帝国 2 ハイパーボリア編』(アトリエサード))
コラム・「クトゥルー神話の大統合者」
クトゥルー神話とは、H・P・ラヴクラフトを中心とする一群の怪奇作家達が、自分達が創造した神々や魔導書などの固有名詞を互いの作品で共有するというお遊びを通し、意図せずして作りあげた架空の神話体系である。ラヴクラフトの死後、この作品群が同一世界に存在するとの前提で、体系化を試みる熱心な読者が現れた。フランシス・T・レイニーの「クトゥルー神話小辞典」、リン・カーターの「クトゥルー神話の神神」は日本の神話作品アンソロジーにも掲載され、多大な影響を与えている。但し、カーターはその後数十年にわたりクトゥルー神話の体系化を継続し、彼の構想する「クトゥルー神話大系」は最終的に、アマチュア時代に書いた「神神」とは全く異なるものとなった。この連載では、「クトゥルー神話の大統合者」と呼ばれるリン・カーターの体系化した設定を主軸に、クトゥルー神話の世界観について解説していこうと思う。