祝福される者と呪われる者
死後の世界―5・祝福される者と呪われる者
前回の「死後の世界―4・羊とやぎの裁き」からの続きです。
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前回はマタイの福音書25章からキリストが語った「羊とやぎの裁き」について解説しました。
マタイの福音書25章
25:31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
25:32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
25:39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
25:41 それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
25:42 おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
25:43 わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
25:44 すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
そして王様は「何を基準にして永遠のいのちを与える羊と永遠の刑罰を与える やぎ の区別をしていのか?」を解説しました。王様の羊とやぎを区別する判定基準は王様の兄弟である「最も小さい者たちの一人」にした「行い」です。王様の兄弟である「最も小さい者たちの一人」が困っているときに助けた人々が羊となって「永遠のいのち」を頂き、王様の兄弟である「最も小さい者たちの一人」が困っているときに助けたなった人々が「永遠の刑罰」を受けます。王様の兄弟である「最も小さい者たちの一人」とは「クリスチャン」です。その根拠は、神がアブラハムに約束した言葉にあります。
創世記12章
12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
12章3節で神はアブラハムに
12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。
と語りました。
「あなた」とは「最も小さい者たちの一人」です。「現代のクリスチャン」です。
「あなたを祝福する者」とは「最も小さい者たちの一人を助けた羊」です。現代のクリスチャンを助けたノン・クリスチャンです。
「あなたを呪う者」とは「最も小さい者たちの一人を助けなかった やぎ 」です。現代のクリスチャンを助けなかったノン・クリスチャンです。
王様の裁きの基準は一貫しています。アブラハムに約束した言葉を現代のクリスチャンにも適用して、クリスチャンを助けたノン・クリスチャンを祝福して、クリスチャンを助けなかったノン・クリスチャンを呪います。祝福(永遠のいのち)か、呪い(永遠の刑罰)かの、どちらかにシャープに区別されます。
ユダヤの信仰の始祖であるアブラハムは新約時代のクリスチャンの信仰の「型」を表しています。信仰の「模範」を示しています。アブラハムの信仰は現代のクリスチャンの信仰です。アブラハムに約束した神の言葉は現代のクリスチャンへの約束の言葉です。「アブラハム=クリスチャン」です。ですから
わたしは、あなたを祝福するノン・クリスチャンを祝福し、あなたを呪うノン・クリスチャンをのろう。
です。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
そうすればわたしはあなたをノン・クリスチャンの世界、国々で、「大いなる国民、大いなる神の民」にして、あなたは「祝福の源(みなもと)」になります。クリスチャンは神様の「祝福の源(みなもと)」になり、ノン・クリスチャンがクリスチャンを通して神の祝福を受けます。
12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
12:3・・・地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
「・・・地のすべての部族」とは「地のすべてのノン・クリスチャン」です。
神は最初にアブラハムを祝福で満たして、アブラハムから溢れ出た祝福がさらに地のすべての部族に流れていき、地のすべての部族が神の祝福に与ることが出来ます。だから神はアブラハムに向かって「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」と仰せられました。これが「神の祝福の法則」です。神はアブラハムを通して地のすべての部族を祝福します。アブラハムは神が地のすべての部族を祝福するために神から選ばれた「祝福の源(みなもと)」です。この「神の祝福の法則」を現代のクリスチャンも受け継いでいます。
神は世のはじめより御自身が選ばれたクリスチャンを祝福で満たして、さらにクリスチャンから溢れ出た祝福によって、ノン・クリスチャンが祝福されます。
神の最終目的はアブラハムではありません。アブラハムから祝福を受ける「地のすべての部族」です。「地のすべての部族を祝福するため」にアブラハムを選びました。クリスチャンも同じです。神の最終目的はクリスチャンではありません。クリスチャンから祝福を受ける「地のすべてのノン・クリスチャン」です。「地のすべてのノン・クリスチャンを祝福するため」にクリスチャンが選ばれました。そして小さき者の一人であるクリスチャンを助けた人々が子羊となって永遠にいのちという「永遠の祝福」を受取り、小さき者の一人であるクリスチャンを助けなかった人々は呪われて「永遠の刑罰」を受取ります。
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キリストはあるとき善きサマリヤ人の話をされました。ユダヤの律法の専門家がイエスを試みようとしてイエスに質問して来たのでイエスは彼の下心を見抜いて善きサマリヤ人のたとえ話しで切り返して逆に彼に質問しました。
ルカの福音書10章
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
サマリヤ人は元々はユダヤに属する人々でしたが、ただ、同じユダヤでも、ソロモン王の死後に北と南に分裂した北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア王国に捕囚されてアッシリアの宗教の影響を受けた人々やアッシリアの人々との交わりで生まれて来たユダヤ人ですから純血の保守本流のユダヤから忌み嫌われて異邦人扱いされていた人々です。ですからユダヤからすればサマリヤ人は忌み嫌う異邦人という認識で、普段はお互い挨拶することも会話をすることもありません。そのことはヨハネの福音書4章に出て来る「サマリヤの女」との会話で理解出来ます。
ヨハネの福音書4章
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
そのような歴史背景のあるサマリヤ人を持ち出して来てキリストは正統派を名乗るユダヤの律法の専門家の質問に答えました。
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
律法の専門家が質問した「永遠のいのち」はキリストがマタイの福音書25章で語った「羊と やぎ の裁き」で王様が羊に与えた「永遠のいのち」です。
マタイの福音書25章
25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
そしてキリストはモーセの律法から『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』との戒めの言葉を引用しながら、強盗に襲われて半殺しの体にされて道端で倒れている「ある人」を見て見ぬふりしながら関わりたくないとわざわざ倒れている人を避けて道の反対側を通り過ぎて行った祭司とレビ人の二人と、かわいそうに思って近寄って手を取って介抱して看護して家畜に乗せて宿に連れて行って宿賃まで出して足らなければ帰りに寄って足らない分も払いますと言ってそのまま宿を後にして去って行ったサマリヤ人の三人の中で、だれが、強盗に襲われた「ある人」の隣人になったと思いますか?
と律法の専門家に切り返して質問しました。もちろん答えは瀕死で倒れている人を助けた「サマリヤ人」です。
道端で倒れている「ある人」はエルサレムからエリコへ下って行く途中で強盗に襲われた人ですから、エルサレム神殿の礼拝の帰りにエリコへの道の途中で襲われた「ユダヤ人」です。神殿の近くの帰り道に倒れていたから、神殿で祭祀を行う祭司と祭司の世話をするレビ族の一人はたまたま道端に倒れている「ある人」と出会ってしまいました。サマリヤ人はエルサレム神殿に入ることが出来ませんから、ただ旅をしていて神殿の近くの道を家畜をひきながら歩いていたらたまたま強盗に襲われて道端に倒れている「ある人」と出会ってしまいました・・・というシチュエーション、状況設定です。
道端に倒れている「ある人」はユダヤ人です。ですから祭司、レビ人は同胞のユダヤ人が道端で倒れているのが分かっているにもかかわらず、見て見ぬふりをして避けながら、その場を去って行きました。祭司とレビ人は道端に倒れている「ある人」が神殿で捧げた「献金」によって生活している人たちです。それでも祭司とレビ人は彼を無視してその場を去って行きました。現代の日本の政治家と同じです。国民が国に納めている税金で贅沢な生活をしている政治家が国民に内緒でせっせと裏金作りに勤しむのとなんら変わりがありません。
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神に仕えることは人に仕えることです。
キリストは言われました。
マタイの福音書20章
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
マタイの福音書23章
23:11 あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
マルコの福音書10章
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
祭司とレビ人は人々から「仕えられる人たち」です。
キリストは「人々に仕える人」としてこの世に来られました。
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話しを戻します。
イエスを試そうとの下心で「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」と質問してきた律法の専門家に向かって、イエスはわざわざユダヤが忌み嫌うサマリヤ人を主人公にした話しをして、律法の専門家に「その人にあわれみ深い行いをした人(サマリヤ人)です。」と言わせて、最後に「あなたも行って、同じようにしなさい。」と言って、終わらせました。一番痛いところを突かれて、しかもサマリヤ人の行いが永遠のいのちの条件であることを自ら認めた律法の専門家は、イエスの言葉の前にただただ沈黙するしか、ありませんでした。この場面はキリストの知恵の賢さを見事に表しています。
神の愚かさは人の賢さに優ります。
ようするに、ここでキリストは、「永遠のいのち」を受け継ぐ人の条件は、正統派のユダヤとか異邦人扱いのサマリヤ人とかは、関係ありませんよ。偶然に、たまたま出会った目の前の困った人を助けた人々が、「永遠のいのち」を受け継ぐ人ですよ!!!と教えています。
王様(神)の「羊とやぎの裁き」と同じように困っている人を助ける「愛を行う人」が永遠のいのちを受け継ぎます。信仰は「行い」です。机上の空論ではありません。ヤコブの手紙に書いてあります。
ヤコブの手紙2章
2:20 ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。
2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
2:22 あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。
2:25 同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。
2:26 からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。
ヘブル人への手紙11章
11:31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。
遊女ラハブのように今で云う風俗で商売する売春婦たちでさえも、「愛の行い」によって救われる機会が与えられています。現実に元・ヤクザが救われて牧師になって伝道している人たちもいます。
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律法の専門家は旧約聖書に精通した専門家です。祭司はユダヤの総代として神殿で祭祀を行い、レビ人は祭司を補佐する人です。ですから彼らは生粋のユダヤ人で自分たちは神から選ばれた民であるという自負がありますから、当然、自分たちが永遠にいのちを受継ぎ、サマリヤ人は永遠のいのちを受けられないという勝手な信仰、思い込みがありました。しかしキリストは「愛の行い」によってサマリヤ人が永遠のいのちを受継いで、純血正統保守本流のユダヤが「愛のない行い」によって永遠のいのちを受継ぐことが出来ません。と教えています。
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信仰は「愛の実を結ぶ信仰」と「愛の実を結ばない信仰」の二つに分かれます。どちらも「神様を信じているクリスチャン」です。しかし愛の実を結ばない信仰の牧師、伝道師、クリスチャンが「永遠のいのち」を受継ぐことは出来ません。
神は「愛」を見ています。
律法の専門家の愛と、祭司の愛と、レビ人の愛と、サマリヤ人の愛を、見ています。キリスト教会も同じです。
神はキリスト教会の愛とノン・クリスチャンの愛を平等に見ています。
キリスト教会の牧師は「神様を信じないノン・クリスチャンは死んで裁かれて永遠に苦しみます!」と教えていますが、神は牧師が語る「裁きのメッセージ」なんか聴いていません。ノン・クリスチャンの「愛の行い」を見ています。
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この続きは次回の「死後の世界―7」で投稿します。
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引用・聖書 新改訳 2017© 新日本聖書刊行会
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