見出し画像

68年 アイヌの牧師・江賀寅三師の再起に全国から協力

江賀寅三牧師(1894、明治27生)は自らアイヌ(アイヌ名 シアンレㇰ、本当の叫び)で、差別による苦渋を舐めながら教育者として労していた。そんな中、「アイヌの父」と呼ばれるジョン・バチェラー宣教師の働きの圏内でクリスチャンとなり、牧師の道に進んだ。

1968年クリスチャン新聞記事になっているのは、中田重治の影響でホーリネスの「福音使」となってアイヌ伝道に携わっていたものが、戦時体制下、牧師職を辞さざるを得なかったのが、1962年再起し、全国のクリスチャンから後援を受け、68年には静内新生教会として教会堂を建てるにも至った、その献堂式に際して書かれた記事である。

静内町
静内新生教会。
「のりさんのブログ」に「◎静内新生キリスト教会訪問レポート2022.8.4佐藤信彦牧師に聴くアイヌへの宣教史メモ」という記事を掲載しておられる。私のNOTE記事に未掲載の、江賀などに関する情報を載せておられる。
佐藤信彦師は、現在の静内新生教会牧師。関西聖書神学校卒で伊達出身。「旧伊達藩(仙台藩)の厳命に「ウタリとのトラブルを起こすな」とあり、伊達市内ではアイヌへの差別はなかった」とのりさんのインタビューに答えている。
かつて同教会に、5つの教会学校がありクリスマスには100人が出席し、町からの児童教育要請があったが、後に創価学会等から反対を受け、以降、減ったという。いろいろ考えさせられる

戦前、教育者からバチェラーの影響で牧師に、そして中田重治の許へ

クリスチャンになったのは1916年(大正5年)。平取小学校(旧土人学校)に勤務していたが、いつも酒を飲んで酔っ払っているようなありさまで、それをバチェラーの弟子である辺泥(べて)五郎(鵡川=むかわ=チン教会伝道師。所属教派:聖公会)から「一喝されて目覚め」(wiki)、バチェラー宣教師から洗礼を受けるに至った。

*辺泥五郎のことについて、日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターが「アイヌ民族情報センター活動日誌」に、辺泥の近親者に取材した記事を載せておられる。セントルイス万博との関わりなども興味深い

投げやりになって?酒に溺れていた中、キリスト教に出会う

酒に泥酔というのは、私クリ時旅人が、wikipediaの江賀の項などを見て推測するに、苦学して教育者になったものの、有珠山大噴火、飢饉など自然災害にも見舞われる中、和人優遇・アイヌ抑圧の政策により苦渋を舐めて、投げやりになっていたのではないか。
そんな中でのキリスト教との出会いであったわけだ。

「アイヌは和人の教師としてふさわしくない」と言われ

洗礼を受けた後、往復24kmある鵡川チン教会に欠かさず出席していた江賀だが、平取尋常小学校に、江賀の勤務する平取小学校(旧土人学校)が合併する際、「アイヌは和人の教師としてふさわしくない」との理由で平取を去らさせられる。
しかし、同じアイヌの教育者の働きかけで、静内遠仏小学校(旧土人学校)の校長となる。

アイヌ語辞書の編纂も手伝う。そして聖公会の教職に

そんな期間に、ジョン・バチェラーの「アイヌ語辞典」編纂も手伝った。同師の導きで1922年、教育職を辞して聖公会の副牧師に。

中田重治との出会い、柏木聖書学院、そしてホーリネスの教職に

その後、1924年、中田重治の北海道巡回伝道の際、知遇を得、柏木聖書学院に入学、日本ホーリネス教会の福音使(牧師)となるに至り樺太まで伝道の足を伸ばす。

どちらかというと「格式」を重んじる聖公会から、信仰熱心でとにかく伝道に励めばよいというホーリネス教会への移動は珍しく思われる。
バチェラーの元から離れることをよくバチェラーが許したなと思うのだが、何のことはない、バチェラーは中田と深い結びつきがあった。

wikipedeia「中田重治」の項に1923年の「全国教派聖書大会」ということが書かれている。これは、「聖書信仰の同志が結束するため」の運動であり、「聖書に帰れ」をスローガンにしたものだが、その発起人に、聖公会のジョン・バチェラーが、日本基督教会の日匹信亮、亀谷凌雲、メソジストの釘宮辰生などとともに名を連ねているのである。

だから容易に推測できるのは、バチェラーは中田の信仰の路線に大いに共鳴したということだ。
ひょっとしたら、バチェラーが中田を北海道に招請したり、江賀にも、中田のもとに行くよう勧めたのかもしれない。

江賀は卒業後、日高のアイヌ部落でエスコタン(耶蘇の村)を設けたり、福音使として旭川に駐在、その後、駐太にまで伝道の足を伸ばし、1932年北海道に戻り、日高姉茶に駐在して伝道していたが、日中戦争以降の戦時下の社会情勢悪化に伴い1938年教会を解散、牧師を辞めていた。

アイヌ伝道者・江賀、再び立ち上がる(1962)

その彼が1962年、牧師・伝道者として再び立ち上がり、それが全国的に大きな反響を呼んで、1968年4月、北海道日高国静内町吉野町(当時クリスチャン新聞での表記)にモダンな教会堂まで建設されるに至った記事が、クリスチャン新聞1968年5月12日号に掲載されているわけである。

この記事の書き出しは「『戦うコタンの勇士』(勇者であるところ誤植だろう)で知られる北海道アイヌの伝道者江賀寅三氏(74)」となっている。
当時、教界内外で、江賀師のことが広く知られる情勢になっていたことが分かる。
それは1964年、NHK「或る人生」で全国放映されたことが大きいようだ(wiki江賀)。

また、このクリスチャン新聞記事によると、福音派中堅(当時)リーダーの一人、森山諭牧師が、「戦争の試練の中から再びアイヌ伝道に立ち上がろうという江賀牧師の決意を聞」き、「内地宣教会江賀寅三牧師後援会」を結成した(この運動の成果がNHKの放映にまで影響を及ぼしたかもしれない)。
森山師が1964年、『戦うコタンの勇者 アイヌ教育家・牧師・江賀寅三伝』を出版したのもその中での動きであろう。

1964年、森山諭牧師によって上梓された江賀の評伝『戦うコタンの勇者』(179㌻)。版元は「日本イエス・キリスト教団東京教会」と自費出版のようだが、当時にして、カラー写真の表紙であることに並々ならぬ意欲と、その出版を支えた厚い層があったことが窺える

森山諭 再臨待望同志会東京大会実行委員長、ビリー・グラハム国際大会財務委員長、日韓親善宣教協力会長、日本ケズィック・コンベンション財務委員。
統一協会被害者の救出運動に精力的に取り組んだことで知られている。
1926年、福島県立農林学校学生時、極度のノイローゼで、飛び込み自殺寸前に、劇的な回心。1937年月刊誌『待望』発刊。同年受洗。
1941年(昭和16年)『待望』に非戦論を掲載、発禁処分となる。

戦後社会の中、全国から寄せられた江賀への支援

そして、森山らによる江賀後援会は、「毎月伝道費を送り続け、こんどの会堂建設のためにも全国各地から献金を求めた」。

その著しい反響がこのクリスチャン新聞によって報告されている。
「遠く四国、九州からも送金があり、高校生がアルバイトで得た汗の結晶をそっくり送ってきたこともあった」と記されている。
江賀の生き方は、森山の文筆と相俟って、多くのクリスチャンの心を揺り動かしたということだろう。

また、戦前は同化政策一辺倒だった政府サイドでも、元運輸大臣の北海道選出代議士・松浦修太郎氏を会長に、静内町長・服部衿次朗氏を副会長に賛助委員会が生まれた。その下に地元の人々も募金活動を進めた。

クリスチャン新聞による情報

さて、江賀の生きざまの何がこのように多くの人々の心を動かしたのか。
クリスチャン新聞には、wikipediaには載っていないことが書いてあった。

「和人はアイヌに酒を飲ませてはその財産まで奪い取るという不法行為を重ね、アイヌをいためつくしてきた」。
このような同胞の苦痛を受けて育った江賀は、「アイヌがシャモに騙されるのは無学と酒だ」として、苦学の末、アイヌ第1号の教員に採用され、苦学の末アイヌただひとりの校長までなった。
「しかし教育では人は救われないと気づき教育界を出てアイヌの父といわれた英国宣教師J・バチェラー博士に師事し、博士の紹介でホーリネス東京聖書学院で学び、後本島(国後島の誤記か?)から北海道、樺太にまで伝道の足を伸ばした」

また、江賀が「行政書士と司法書士の看板」をも掲げていることについて「結婚届も出産届もしないアイヌにとって江賀師の書類作りはなくてならないものだ」。
しかし「貧しいアイヌのために代書代も頂くわけにはいかない」と「和人である夫人の初江さんが弱いからだにむち打って毎日失対事業に出て生活を支えている」と伝えている。

クリスチャン新聞記事は「今後の祈りとして夫人がニコヨンをやめ牧師夫人としての立場と職務に帰れることと、またアイヌ(シャモとあるのは誤記だろう)に対する和人の愛をもってその生涯を献げる青年伝道者が与えられること」を読者に訴えて結びとしている。

クリスチャン新聞スクラップ

クリスチャン新聞1968年5月12日号

おまけ

静内新生教会現牧師・佐藤信彦師。Youtubeに礼拝説教で5分30秒あたりから、江賀のことを話している。静内新生教会がいまも江賀師を覚え、江賀師と同じく聖書に立つ信仰を大事にしていること。北海道教育史においても注目されつつあるなど。
また3分辺りに、この教会が聖公会の教会と交流があることが分かる。江賀たちの影響が聖公会に残っているということかと思わされた。

noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。クリ時旅人をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。