愛の故にフォアマン、再びチャンピオンに挑戦(中巻
ジョージ・フォアマン物語 中巻
牧師になった後、プロボクシングに復帰する
プロボクシングを引退してしまい、牧師にまでなったフォアマンは、人生に行き詰まったり落ちこぼれた若者に、生きる意味があることを伝えたいと、フォアマン・ユースセンター(Foreman Youth and Community Center)を開設した。
そして、引退から10年後、再び世界ヘビー級チャンピオンを目指して、プロボクシングに復帰する。もう旬もとっくに過ぎ、でっぷりと突き出したお腹でチャンピオンを目指すなどと言うフォアマンを、誰しもがクレージーだと思った・・・。
再びプロボクシングの道に
信念をもって1度目のプロ引退をしたフォアマン
かつて10年前のボクシング引退時も、彼はクレージーだと思われたのだった。それは、アリと再びチャンピオンシップを争う切符が手に入るはずの試合で、まさかの敗北を喫したことを機にだったが、あまりに唐突だった。多くの富と名声を手に入れてきたボクシングを辞めて、牧師なんかに収まってしまったのだから。
フォアマンにとってはその引退は、まさかの試合の敗北の深い失意の中、疲れきって戻った更衣室で仮死状態となり、その中で、「キリストに出会い」、神の愛が分かったからだった。
イエス・キリストが十字架で血を流して死に、全人類の罪の身代わりになって下さったのは「私という人間のためでもあった」ということが個人的に分かった。「神が俺のことを個人的に愛してくれている」と強烈に実感できた。だから、何とかその喜びを人々に伝えたいと願ったからなのである。
フォアマンは、その選択に確信を持ち、いくら人から「狂気の沙汰」と思われても「自分の体験と神の愛について彼らに証しします」と当時のクリスチャン新聞(1979年)に、来日時インタビューで答えている。
(そのことは上巻に詳しく書いている)
ところがフォアマンは思わぬことから、再びプロボクシングのリングに立つことになる。それは引退してからちょうど10年後のこと(1987年)だった。
そして、観客が数10人しかいないローカルな試合をいくつも経るところから始まって、ついに、誰も成し遂げたことのないことを達成し、世界の多くの人々に感動を与える物語を刻んでいくのだ。
プロ復帰の理由はフォアマン・ユースセンターの危機
フォアマンのプロ復帰の理由は、ユースセンターが経済的に破綻の危機に陥ったことであった。雇っていた会計士が横領事件を起こしたのだ。フォアマンの公式webサイトに、彼自身がその時のことを回顧して書いている。
「顧問弁護士がやってきて、私に寝耳に水のことを言うのさ。『ジョージ、君がみんなを助けてるのはすばらしいことだよ。だけどこのままじゃ、これまでで最も悲しいボクサーの物語になってしまう。君はこの事業を続けることはできない。撤退しなければならないんだ』。私は泣き叫びたい気持ちになった」。
フォアマン・ユースセンターは彼の最も大切な宝物
しかしフォアマンは、ユースセンターを止めるつもりは微塵もなかった。
なぜなら、それは彼にとって何物にも代え難い大切な宝物だったからである。
フォアマン自身の恵まれない生い立ち
ユースセンターが彼にとってどんな意味を持つのか。それは彼自身のたどってきた道のりを知らなければならない。
フォアマンは、貧しい地域の貧しい家庭に生また。いつも欲求不満で、ちょっとしたことにも腹を立て、喧嘩や酒、恐喝、窃盗に明け暮れた。中学すらろくに卒業していない。
給料を道楽と酒に使ってしまう父親に代わって、調理人の仕事を2つ掛け持ちし、身を粉にして自分たち7人兄弟を養ってくれた母親は、「いつも 誠実に生きなさい」と話すが、自分にそんな明るい未来が開けるという希望が持てなかった。
自分で自分をどうすることもできないでいたのだ。
セカンドチャンスを提供するJob Corpsに、自分の未来を託す
しかし、そんな16歳のある日、テレビでたまたま、NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)のスター選手が「君にもやり直しの機会(セカンドチャンス)がある」と語りかけた。それが、自分へのメッセージとして耳に飛び込んできた。
これは、当時のジョンソン大統領の「貧困との戦い」政策の目玉として打ちだされた職業部隊(Job Corps)のPRだったのである。
フォアマンは、職業部隊におのれの未来を託した。
16歳で生まれて初めて故郷テキサス州ヒューストンを離れ、はるばる西海岸オレゴン州にある職業部隊のセンターに入った。そこでも喧嘩して自分を誇示した。
しかし、ボクシングのコーチ、ドク・ブローダスが彼を見出し、いきなりフォアマンをリングに上げてスパークリングさせた。相手は、モヤシのような痩せ男で、1発で倒せると思った。ところが巧みにパンチをかわされ、逆にジャブを食らって倒された。
恥ずかしくて再びボクシングジムには行かなかった。
何回でも見捨てず拾ってくれたボクシングのコーチ
しかしその後、センター内で警察沙汰の暴力事件を起こしてしまう。除隊を覚悟したが、ドクがかばってくれ、センターは「最後のチャンス」を与えてくれた。
「俺にボクシングを教えてくれ」とドクに頼み込んだ。ヘトヘトになるまで練習した。数週間後の試合で、海軍に所属する相手にKO勝ちした。
それがフォアマンのボクシング人生の始まりである。
そうして職業部隊を卒業後、ヒューストンに帰る。けれどプロボクサーになる気は全くなかった。
2年間飲まなかった酒を飲んだ。女の子を口説くと、ボーイフレンドが来て「俺の彼女だぞ」と言った。フォアマンは殴った。告訴された。「ジョージ、道は1つしかないわ」。母親は示談金を払い、ドクに電話した。
金メダルを得てプロに転向
フォアマンは、職業部隊に住み込みで働くことになり、ジムでドクからビシビシしごかれた。
そして1968年、目指していたメキシコオリンピックで金メダルを獲得した。それを機に、プロに転身した。
世界ヘビー級チャンピオンに上り詰める
そして1973年、ついに上り詰めた世界ヘビー級チャンピオン。
富と名声が手に入った。懸命にボクシングに食らいつき、ボクシングに賭けてきた日々が報われたのだ。
それは、「象のようなパンチ」で、いつも2ラウンド以内に相手をKOする腕力の快進撃によるものだった。試合の始まる前は、巨体で対戦相手をにらみつけ、まず相手を震いあがらせた。
常に不愛想で、周囲に殺気を放つフォアマンだった。
アリにまさかの敗北
それが翌1974年、キンシャサの対戦で、モハメッド・アリから、まさかの8ラウンドKO負けを食らってしまう(上巻参照)。
「絶対にフォアマンが勝つ」と世間から思われていたのに、プロになって初めて、そしてチャンピオンシップを失う負けを喫したフォアマンは苦しみ抜いた。
自分は生きる価値がないと思うほど苦しんだ末、学んだこと
それは、「自分は、生きる価値のない人間だ」と思い込むほどの苦しみだった。15か月間のブランクとなった。しかし、その葛藤の中でひとつの答えにたどり着いた。「アリにあって自分になかったのは、経験だ!」
アリのロープ・ア・ドープ戦法はまさに、経験から学ぶキャリアの差であったのだ。
短時間で力任せに目の前の相手を打ち負かす、という試合しかしたことのなかったフォアマンは、計画を立てて長期的に、時間をかけて勝利という目標に近づいていくことを学んだ。
自分と闘うボクシングをようやくつかんだのだった。
アリとの再試合一歩手前の試合でまさかの敗北
そして、何としてでもチャンピオンベルトを奪還したい。アリに勝ちたいと、一歩一歩、試合の駒を進めていった。
そしてもう一歩、この試合に勝てばアリとの再試合の権利が手に入る試合で、格下の相手に、まさかの敗北を喫してしまったのだ。それが1977年。
その時のフォアマンの落胆は上巻に書いたとおりである。
どんなに努力しても、自分のベストを尽くしても前に進めない。今度こそ自分の人生は「ジ・エンド」だと思った。
自分の努力でどうしようもない。限界で知った神の愛
そして、ロッカールームでひっくり返り、仮死状態に陥ったなか、人類の救い主であるイエス・キリストが自分に顕れてくださって、「もう生きる価値もない」と思っている自分を神が愛していてくださり、「死の虚無の世界」から救い出してくださったことが分かったのだった。
地元の教会でその体験談を話したことをきっかけに、全米や世界でその話をすることになった。1979年クリスチャン新聞の取材を受けたのも、そのため(ボクシング関係の接触は断って)の来日でのことだったのだ。
そういう中で、牧師に任じられ、自らの教会も設立した。
ユースセンター設立のきっかけ
「私の子を立ち直らせてやって」という母親の訴え
さてそんな中1983年、フォアマンが生まれ育ち牧師を務めるヒューストンの、貧しい地域で母親たちが、ぼろぼろの体育館を借りて、手作りでボクシング入門教室を始めようとしていた。フォアマンの兄のひとりが事業に失敗していたが、それを手伝っていた。彼も若い連中にボクシングを教えるだけの知識を持っていたからだ。
フォアマンが兄を激励するためその体育館を訪ねると、忙しく作業をしていた母親たちの一人が、フォアマン本人であることに気がついて近寄ってきた。そして、自分の息子を立ち直らせてやって欲しいと訴えた。元チャンピオンならあの子は立ち直るはずだ、とその目は語っていた。
だが、その時フォアマンは、「私は今は説教者の身だ。その若者がトラブルから逃れることを彼女が望むなら、教会の礼拝に連れてくれば良いのだ。教会員も、私が再びボクシングに関わることを望んでいないだろう」。そう思ったので、ボクシングを教えることを断った。
何日か経って、街で偶然その兄と出会った。そしてその少年の話題になった。
「あいつは今どうしてるんだい?」「・・・刑務所に入れられたよ」
友だちと店に強盗に押し入り、店主が友だちを撃ったので、彼は店主を撃った。そして重い傷を負わせてしまったのだ。
フォアマンはその晩、眠ることができなかった。思い出してみると、あの日以降、その少年はしょっちゅう、フォアマンの見えるところにいた。それなのに、「あの子は、俺の指からこぼれ落ちてしまった」。自分が助けることができたはずの若者を助けなかった。フォアマンはおのれを恥じた。
そして兄に会いに行き、「俺たちは何かしないといけないぜ」と言った。
倉庫を改装してユースセンターが始まった
やがて、倉庫だった建物を買って改装し、ボクシングのリングやバスケットコートが設けられた。フォアマン・ユースセンター(Foreman Youth and Community Center)がこうやって始まったのだ。
「1ドルの年会費すらやっとのことで払う貧しい家の子らこそたくさん愛されるべきだし、たくさん成長の機会があるべきだ」とフォアマンは記している。
センターのルールは「フェアープレーとスポーツマンシップ」だけ。「本が読みたければ読めるようにたくさん用意した。歴史、芸術、文学、動物・・・あらゆる種類の本だ。聖書すらそこに入ってる。だが私は、彼らに“説教”したことはない。伝道だってしない。だけど、やがて一人、また一人とやってきて打ち明けるんだ。悪い習慣をやめて、人生をやり直すと」。
若者たちの父親となったフォアマン
フォアマンのことをたくさん書いているノンフィクションライターの林壮一という人がいる。彼は若いとき、ボクシングプロに合格したが左肘のケガで挫折、週刊誌記者を経てノンフィクションライターになった(『オバマも救えないアメリカ』=新潮新書=、『ほめて伸ばすコーチング』 =(講談社+α新書=といった著がある)。彼は1996年渡米して、始めてフォアマンを取材した。それはフォアマンがすでにプロボクシングに戻った後で、大活躍をするようになっていた頃だ。
もちろんボクサーとしてのフォアマンに惚れ込んでのことだった。けれど、ユースセンターのあり方を見ているうちに、次第にフォアマンの人間としての生きざまに魅力を感じるようになっていったという。
それでフォアマンに倣って、一時期、アメリカで底辺とされる高校と小学校の教壇に立ったことすらある。
その決意を述べたとき、フォアマンは「Be Father(父親になってやれ)」とだけアドバイスしてくれたという。
「フォアマンのような度量の無い私には、とても父親代わりなど務まらなかったが、BIGジョージがいかなる思いで若者たちと向かい合っているのかは理解できた。リングで闘うほどの派手さは無いが、故郷に腰を据え、黙々と日々の作業をこなすフォアマンの姿に感銘を受けた」。
「君たちがここに来るのをジョージが望んでいる」
林はユースセンターについて、「地域の駆け込み寺のようなものである。不登校になった子供や、家庭でトラブルを抱えた若者が自らの悩みを打ち明け、第三者である大人との時間を共有し、安らぎを得るのだ」と説明する。そして、フォアマン本人の、ユースセンターにかける思いを伝えてくれている。
「子どもたちに何かを教えるということはしない。彼らとコミュニケーションを取ることに意義があるからね。『キミたちがここに来ることを、ジョージが望んでいる』と思ってもらえたらいいのさ。同じ空間で一緒に遊んだり、冗談を言って笑い合う、そんな触れ合いが大切なのさ」
「幸いなことに私はセカンドチャンスを得られ、多少、他者からの注目を集めている。ここに来る子供たちは他者から勇気付けてもらいたいんだ。時間をかければ、大抵の子は心を開いていくよ」
ユースセンター存続の危機。プロ復帰を決意する
そんなユースセンターが、開設から4年経った1987年、会計士の横領で存続の危機に陥るということがあったのだ。それがフォアマンのプロ復帰の強い動機となったのである。
「あきらめたくない。自分が立ち上がらなくては」
フォアマンは自叙伝で回顧する。
「私があきらめたくなかったのは、自分の子どもたち(12人いる)の大学進学だ。そしてそれと同じくらい重要な私の義務がある。ユースセンターに来る子どもたちは喜んで、毎日、通学バスに飛び乗ってやって来る。私が面倒見なければ誰が見るというのだろう。そして彼らが、私の経済的な問題など知る必要もないのだ」。
「彼らが、私の経済的な問題など知る必要もない」という言葉の意味は何だろうか。彼らの「父親」として、彼らが何の心配も気兼ねもしないで、これまでのようにただのびのびとユースセンターで過ごして欲しいと願うフォアマンの思いが伝わってくる。
そして「彼ら」に、父親である自分も懸命に闘って勝利に至る姿を見せたい、という思いもあったのではないだろうか?
「この子たちは私を必要としてくれている。ただ、資金を調達する別の方法を考えなければならない。その時、私は思いついた。私は世界ヘビー級チャンピオンになるんだ、もう一度」。
プロ復帰は反対を受けた
かつてのトレーナーに「カムバックするから手伝ってくれ」と言うと、ジョークだと思われてしまった。再会したトレーナーは、チーズバーガーを食べ続けて見事に膨らんだ太鼓腹を見て、カムバックさせてはいけないと思った。体重は現役時代から45㌔増えていた。それにもう彼は37歳なのだ。しかしフォアマンの熱意に負けて引き受ける。少しでもトレーナーが危険だと判断したらすぐに引退することが条件だった。
練習量はかつての全盛期を超えた
かつてアリと闘った頃さえ3㌔以上走ったことはなかったのに、5㌔、8㌔と距離を伸ばした。サンドバッグを打ち、ステップワークの練習、縄跳び、ミット打ち、スパーリング。夜もルームランナーで走り、その練習量はかつての全盛期を超えた。
「自由のため。幸せになるためのボクシングだ」
観客が数10人しかいないローカルな試合から次第に勝ち上がっていった。
ある州では試合の許可を下す委員会で、「なぜその年になってまだプロボクシングに執着するのか」と疑念を投げかけられた。
フォアマンは、「生きるため。自由のため。幸せになるためです」と答えた。委員会も試合を許可せざる得なかった。
始めこそ人々はフォアマンの復帰を冷たい目で見、狂気の沙汰だと思った。しかし、勝ち上がってくるに従って、メディアにも取り上げられ、中年の希望の星として夢を与える存在となる。ユースセンターのことも知られるようになり、そのことも相俟って彼は「BIGジョージ」と呼ばれるようになっていったのであった。
ついにチャンピオンタイトルマッチに到達
対ホリフィールド戦に判定負け。けれどヒーローとなったフォアマン
復帰後24連戦を経て、ついに1991年、世界ヘビー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドとのタイトルマッチにこぎ着ける。ホリフィールドは28歳、フォアマン42歳。
結果は第12最終ラウンドまで闘った末、ホリフィールドの判定勝ちに終わった。
しかし観衆は、最後まであきらめないフォアマンに心を奪われた。若く、動きが軽やかなチャンピオンをピンチに追い詰める場面が何度もあり、全てのボクシングファンが胸を熱くした。敗者のフォアマンがまるでヒーローのようになったのである。
対モリソン戦にあっけなく敗北。よくやった
1993年、トミー・モリソンと、当時空位だった世界チャンピオンの座を争う。12ラウンド闘った末、3人の判定員全員一致の判定という大差で、モリソンの勝利が決まった。
その後フォアマンは、全国ネットのテレビコメディの番組に出てパロディのネタにされたり、もう引退するのかなと思われていた。
思いがけない結末
ところが世間から忘れられかけた1年半後の94年11月、マイケル・モーラーに逆指名されるかたちで、3度目のタイトルマッチに挑む。
しかし試合は終始モーラーが優位で、モーラーの判定勝ちかと思われた。ところが10ラウンド目。フォアマンが左ジャブに続いて放った渾身の右ストレートがあごにヒット。あっけなく背中から倒れたモーラーは起き上がれず、レフェリーはテンカウントを告げた。まさかのKO勝ちであった。
勝利が決まった瞬間、フォアマンは一瞬、天を見上げ、振り返ってニュートラルコーナーにひざまずき、神に感謝の祈りを捧げたのである。「彼はニュートラルコーナーで祈っている」と実況アナウンサーも述べている。
逆指名だったのだが実際のところ、モーラーが新王者となった2日後に、フォアマンはチャレンジャーとして名乗りを上げていたのである。他にも多くのタイトルマッチへの候補者がいたが、その知名度の故にモーラーはフォアマン選んだのだ。コメディ番組出演も功を奏したかもしれない。
フォアマンは闘うに当たって、「モーラー攻略本という著書が出せるくらいに研究した」と後日述懐している。
彼は、大差のついた対モリソン戦の敗北にも、「折れて」などいなかったのだ。むしろその逆であったのである。
世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いたフォアマン! 時に45歳であった。
これまでの最高齢チャンピオン記録をはるかに塗り替えた。
▲フォアマン対モーラー戦。41分45秒あたりで、フォアマンの勝利が決まった瞬間が見られる
神と共に歩む信仰は人を勝利者にする
さて上巻で「十字架より流るる」という賛美歌を紹介した。
それは、イエスが「私の罪の身代わりに死んでくださった」ことへの感謝を歌い上げる賛美歌だった。
この歌の一番最後、5番を紹介してこの中巻を結びたい。
それは正に、フォアマンのクリスチャンである歩みが、チャンピオン復帰にあくまでも挑戦し続けて、ついにそれを果たすものだった、その物語を表現するのにぴったりだと思うからだ。
目の前の状況に左右されないで
「見るところ」によらずとは、すなわち、目の前に起こっている現実の状況に左右されないで、ということだ。目の前の現実とは、自分のいのちとまでいえるユースセンターが存続の危機に陥ったこと。それを誰にも相談できないこと。そして、プロに復帰して闘い続け、チャンピオンマッチにまでこぎ着けたのに、辛くも負けてしまったこと。もう一度闘うが、今度は徹底的に負けたこと。
そんな、「見るところ」に左右されないで、「道」をこれからも開いてくださる救い主イエスを信じ続け、聖書を読んで自分への神の約束をつかみ、父なる神に向かって祈り続ける信仰によって勝利をつかんだフォアマンだったのである。
愛する生き方が人を真に強くする
1979年のクリスチャン新聞インタビューで答えていたように、「神の愛が分かるまでは金と名誉だけが動機で生きていた」人間の何という変わりようであろうか。
「神と共に歩む」生き方、すなわち神に愛され、それ故に、自分も人々を愛する生き方は、人をこんなにも強くし、人々に勇気を与える生き方なのだ。
上巻を読む | 下巻に続く(未完成、未発表)