自己紹介♤日本のクリスチャンの現代史を残したい
私は、三浦三千春(みうら・みちはる)と申します。関西在住です。
日本ではマイノリティのクリスチャン(キリスト教徒。世界ではマジョリティ)の一員です。
人生の失敗もそれなりに経験した人間として、クリスチャンの角度からものごとの本質を見極めたい、それをプラグマティック(理念ではなく実用的に)にやりたいと願い、この「クリ時旅人」のNOTEを開設しました。
全くキリスト教色のない家庭に生まれました
母方が「クリスチャンの家系」だけれど、身近なキリスト教徒に躓いた若き日の母はクリスチャンにならない決心をし、私が11歳の時までそうでした。
ですから私は、全くキリスト教色や雰囲気のない世俗的(セキュラー)な家庭に生まれ育ちました。生まれた時から家がクリスチャンという人々とはかなり異なる心象風景です(一度も神の存在を疑ったことがないという方もいますから。石破茂さんのように)。
賛美歌よりポピュラーミュージックの音の方が大好きです(きっぱり)。
中学のピュアーな時機にのめり込みすぎたかも
しかし、非常にピュアーな中学生の時機にキリスト教に接し、入信し、あまりに「はまり込み」すぎました。それで人生を「躓いた」ところも大きいとも思います。しかし、全ては自分の責任です。元々の自分の性向が招いた失敗だと思います(別の行き方をしてもまた別の躓き方をしたと思う)。
一方、世界(宇宙)の創造を主宰し、今も治める父なる神、救い主イエス・キリスト、いま我々の間に働いていてくださる聖霊、その三位一体の神と、その神に創造された世界に我々が生きているのだということは、つじつまが合っているし、すごい世界観だし本当のことだと、自分なりに追求すればするほどいよいよ思うようになりました。またそれは、救いになると思いますので、多くの人に、誤解少なくその「ありのまま」を知ってもらいたいというのも事実です。
一言で 一番大事なことを言うと、そんな創造主なる神に我々は祈り(願い)を申し上げることができ、その祈りは、イエス・キリストのお陰をもって、神のお耳に届き、おこたえを頂けるということです。
でも素晴らしいことは斜に構えてでなく正面から伝えたい
キリスト教の立場から言うと「弁証」的な立場ということになると思います。しかし、手放しでキリスト教や教徒が素晴らしいと言うつもりもありません。「キリスト教」が世の中に及ぼしてきたマイナスの面にも目を閉ざしてきたつもりはありません。キリスト教を非常に客観視しています(しかし、「キリスト教マジョリティ」の地域で「しでかさ」れた愚かな言動が、マイノリティの日本で自分たちへの悪評になるのは勘弁してよ、という思いはありますが)。
けれども、少数派のクリスチャンであっても、共に責任も負って日本の歴史を作ってきたのは確かなので、クリスチャンの系統の人がどんな形跡を、歴史の中に刻んできたかを記して残しておきたいという気持ちが強いのです(高校時代からクリスチャンでない友人たちとそういう対話を交わし、それがまだ続いているようです)。
ノンフィクションが得意
フィクション(作り話)は得意ではありません。一方、過去40年近く、ノンフィクション(実話)はたくさん書いてきました。
それに加えて、その事実の持っている、あるいは秘めている(他の人はあまり気づかないかもしれない)意味を見出して、それを自分の論としてことばにすることも好きです。
私の読者や聴取者は、キリスト教ヘイト以外のすべての人々、特にキリスト教を内心、知りたいと思っている人や、すでにクリスチャンだがもっと突っ込んで考えてみたい人ということになるでしょう。
私「クリ時旅人」のNOTE記事や「日刊・生放送」第2部「クリスチャン新聞タイムスリップ」は主に、キリスト教(主にプロテスタント系)が日本に残した痕跡や貢献(特に戦後の)を記録し、その有する深い意味を指摘しようというものです。
行って実を結び、実が残るように
イエスのことばに、「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るように」ということがあります。
救い主(キリスト)であるイエスは、自分のフォロアー(信じる者)が、自分たちの殻に閉じこもっているのでなく、世の中にどんどん「出て行って」、その結果、実を結び、さらに「その実が残るように」期待していることが分かります。
この点において、日本のキリスト教は、「実を残す」ということにほとんど無頓着だと思います。
私の言わんとするところは次のとおりです。
日本においてキリスト教は、その信者の数の少なさにも関わらず、かなり大きな良い影響を日本社会に与えてきました。
にも関わらず、キリスト教の影響によって与えてきた貢献をほとんど認識していないし、大事にもしていないと思われてなりません。
新渡戸稲造は5000円札に
例えば、1984年(昭和59年)に新渡戸稲造の肖像が、5000円札となり、2007年(平成19年)まで使われていたことはその象徴的な事例でしょう。
新渡戸稲造はクリスチャンです。
国が発行する*お札に肖像が載るとは「大変なこと」ではないでしょうか?
クリスチャンでない立場の人から見れば「なぜ?」というような出来事でしょう。
しかし、そうなるように日本のクリスチャンが運動したわけでもないし、まさに「棚からぼた餅」のように新渡戸の肖像のお札ができました。
棚からぼた餅ですから、それがお札になったときも、消える時も、クリスチャンの間ではほとんど何の話題にもなりませんでした。無関心・無頓着なわけです。
ですから今、新渡戸記念館が存続の危機に陥っていますが、キリスト教界から、その存続を応援しようという声はほとんど聞こえてきません。
世論が盛り上がりませんから、市はそのゆかりある建物を潰し、新渡戸の遺物も取り上げようとしています。そういうことにキリスト教界は関心自体がないようです(十和田歴史文化研究会 小笠原理事長が『歴史フォーラム』に関わり、個人を中傷する文書を配付周知した問題)。
賀川豊彦を大事にしていない日本の教界
もう一つ例を上げましょう。賀川豊彦です
クリスチャンで、牧師でもある賀川豊彦ですが戦前、日本における生活協同組合(生協)を創設した人です。また農業協同組合などの共済の設立にも尽力しました。労働運動にもリーダーの一人として深くコミットしました。
戦後の社会党などに繋がっていく無産者政党の成立にも深く関与しています。
ノーベル平和賞候補にも名が挙がった賀川なのです。
しかし日本のキリスト教の側で、そのような賀川を大事に評価し、そこから学ぶ気風は乏しいように感じます。キリスト教と社会の接点をテーマにした書籍があれば、賀川について触れる際、その社会に及ぼした影響力の大きさを記すとともに、必ずといっていいほど「“教会”の側は賀川を受け入れなかった」あるいは「評価しなかった」と書かれている程です。
約40年前私が、キリスト者学生会(KGK)の全国集会に参加した際、アジアから来たゲストスピーカーが、国際的に名の知られる、世界に対して功績の高い人物として、賀川豊彦と内村鑑三の名を挙げたことを奇異に感じる私だったのです。他の学生も概ねそうでしょう。自分たちが通っている教会で賀川や内村の名が聞かれることは殆どないのですから。
故・大平正芳元首相のことも
戦後の人物として指摘しておきたいのが大平正芳です。
大平は自らがクリスチャンであることを明らかにしている中において総理大臣になりました。しかし、キリスト教(少なくともプロテスタント)の側では、そのことをありがたく思ったり、大事に扱ったりということもなかったのは奇異なことと思います。イエスの「その実が残るように」との教訓に全くそぐわないことと思います。
それは、日本のキリスト教(特にプロテスタント)は、自分たちや自分たちの先輩たちが社会に対して行ってきたこと、影響を残してきたことを大事にするとか、それを記録し、その記録を今後の自分たちの社会における活動への参考にしようという意識が乏しいのだと私には感じられてなりません。
統一協会問題などについても思う
蛇足ながら一点追加しておきますと、昨今、政界で再び問題があらわになった統一協会の件です。
これは、アメリカのプロテスタントキリスト教の例などを鑑みる時、正統派のキリスト教徒、教会が適切に政治にも関与すべきであったのに、その点における問題意識も研究も取り組みもなさすぎ、本来、正統なキリスト教が担うべきような役割を統一協会に僣取されてきた、という見方ができるのではないでしょうか? 統一協会問題をうけて「正統なキリスト教は何をやってきたのか」というお叱りの声が聞こえるような思いが私はしているのです。
キリスト新聞、クリスチャンの果たした役割
さて日本のキリスト教と社会の接点をウォッチングし、同信の仲間に伝えるツールとして1946年、賀川豊彦の肝いりで週刊の「キリスト新聞」が創刊されました。またプロテスタント福音派系勢力の間から「クリスチャン新聞」が1967年創刊され、そちらも週刊で今日に至っています。それら両「新聞」がなければ、日本のキリスト教と社会の接点がクローズアップされる機能はなかったでしょう。
私自身が勤めたクリスチャン新聞
私自身は1985年から2000年、クリスチャン新聞(正確には「いのちのことば社」クリスチャン新聞部)に勤め、多くの取材・執筆を行いました。
記者として、多くの職種や立場の多くはクリスチャンに会って、その活動を追い、考えたり大事にしていることを聞いたわけですが、その幅広さはなかなか挑戦的なものでした。
社会のさまざまなことにコミットメントしている人々に話を訊くわけですから、その人の専門性や関心、また職業の中身についてある程度、予備調査をしておいて、その仕事、勤めにおいてどう「信仰が働いている」かを知りたいという欲求・好奇心が私は強かったのです。
さまざまな職種、立場の人がいるクリスチャン界
ですから、①リンゴ農家を営む一家が、農繁期にも教会に行きたい一心で、新しい摘果の道具「ラクラクツメール」(ハサミの刃のようなものを人指し指と中指に装着する)というものを作ってしまったという話やら、②大阪湾で夜、思わぬ時化(しけ)に遭い、もう最後かと思った瞬間、陸の教会の十字架のネオンサインが見えて助かったことを機にクリスチャンになった漁師さんとか、③仕事における自分の不正(誰でもやっているような)を正直にカミングアウトして干されたが後に要職についたサラリーマンや、④難しい製品開発のことで試しに神に祈ってみたら適切なアイデアが思い浮かんだことから求道するに至った人や、⑤絶対負けないはずのボクシングの試合に負けたショックと身体のダメージで仮死状態の中、キリストが現れてくださって、牧師にまでなり、その後、自分が父親みたいに貧しい家庭の若い人たちを育成している施設を倒産の危機から守るため、40を越えてヘビー級チャンピオンに返り咲いた全米プロ(これは私が直接取材した記事ではありませんが大先輩が取材)や、⑥ハレルヤコーラスを歌うグループのお世話しながら、神の作られた世界という信念のなかで理論物理学(核融合反応)に没頭する人であるとか・・・さまざまな職業、人生体験を持つ人々の「生の話」を訊くことができ、それをできるかぎり鮮度そのままで読者に伝える記者という仕事の醍醐味がありました。
いろんな人生を追体験した
自分はクリスチャンになって「生き方が狭くなった」と思いこんでいたけれど、記者勤めを辞めた今、振り返ってみると、クリスチャン新聞の記者であったおかげで、ある意味、いろんな人生を追体験することができたと思うのです。
さて、私が勤める前のクリスチャン新聞も、辞めた後のそれも、私が書いたのと同様、さまざまなクリスチャンの生き様や、驚くほど多岐にわたるキリスト教に関連する出来事を記しています。
クリスチャン新聞バックナンバーの①検索可能化と②再紹介を行う事業
そういう紙面のバックナンバーが、数年前にようやく、ネット上でもPDF形式で読めるようになりました。
しかし、そのPDFはテキストデータ化しない、画像だけのタイプなので、テキスト検索ができないのです。
エクセル一覧化作業
もし検索機能が有効なら、例えば「船」なら「船」、「美容院」なら「美容院」、「酪農」なら「酪農」とキーワードを入れて、それらの語の入った記事をたちまち判別して、複数記事を元に、船をテーマとしたキリスト教やクリスチャンに関連した私の文章をものすることができるわけですが、それは今、不可能なわけです。
バックナンバー全てに目を通して、「船」の語が入ったすべての記事を手作業で探さないといけません(それでもこれまで手作業で7つほど興味深い記事を見つけましたので、それら複数記事に基づいて「船」をテーマにした私の記事を書くことができると思います)。
それで、今こつこつとバックナンバーの端から端まで目を通し、固有名詞や見出し、キーになるワードなどについてエクセルに記録する作業を進行中です。エクセルなら検索をかけることができるから、それを目指しています。
バックナンバー記事、再リリース作業
そのようにバックナンバーを読んでいっているのですが、それをしながら、驚くほど面白い、興味深い記事が載っていることに気づきました。
そこで、自分が関心を持ったバックナンバー記事をネタに、片っ端からNOTEに記事を書くことが始まりました。
それが私のNOTE「クリ時旅人」(くりときたびと。クリスチャン時の旅人=たびびと=の略)の始まりです。
エクセル一覧の作成作業は続いていますが、それとは別に、私がリライトするという「人間フィルター」を経た、クリスチャンの出来事、キリスト教の出来事の興味深いデータベースが構築されつつあるわけです。
こういう作業(①エクセルで一覧にする、②リライトして今日的意義を付与してリリースする)は、私は、必ず行われるべき作業と思っています。
しかし、これまで折衝を試みてきて、クリスチャン新聞本体としては、それを行う気はないようだし、他の機関や人で、同様の作業を行っている例は耳に入ってきません(もしあったらぜひ教えてください)。
日本の教界のことは驚くほどネット上に残っていない
そのことに私は危機感を覚えています。
芸能界のことであれ、鉄道や漫画といった趣味であれ、さまざまな業界であれ、その担当者(業界紙など)や好事家によってインターネット空間にその記録は保存され、検索にひっかかるようになっています。
しかし、クリスチャン新聞に載ったような、クリスチャンに関わる、大変有意義で大事で興味深い出来事や、その主体である人々や組織の固有名詞は、ネットで検索してもほとんど出てこないありさまです。
それを、他のいろんなことがら程度には、ネット上に、テキストベースで、検索可能なかたちで残していこう(画像しかないバックナンバー記事から検索できるテキスト化をしよう)というのが私の志であり野心です。
この分野は、ビジネス的な言い方をすると「ブルーオーシャン」です。
競争相手はほとんどいません。
時を超えるww(「おまけ」の動画です)
応援をお願いします!
ただ、だからこそ、上記のような作業が大事なことだという認知もされず、経費をかけてでも行われるべき作業であると認識されていません。
そこで読者の皆さんへの呼びかけとなります。
上述のように、私は使命感をもって、また、一定のクオリティを維持しつつ、①クリスチャン新聞バックナンバーのエクセル一覧化作業(お許しが出れば考えられる問題点もクリアーしてネット上にも公開したい)と、②NOTEへの再紹介・リライト作業を行っています。
そのことに対して共感する方々はぜひ、この孤独な作業を助けていただきたいのです。
その方法で私が考えるのは下記のとおりです。
励ましのことばをお願いします
①励ましのことばをくださる。私が紹介したこの記事、あの記事を読んでどうだったかの感想や、「この記事は私ととても関係のある件なのです」といったことを教えてほしいのです。それは私にとって大変意味があり、続けていくモチベーションを保つものとなります。
財政的支援や知恵をお願いします
②財政的支援や、そういう方面で知恵をおかしくださることもご検討ください。エクセル化作業は、どこからも給料が出るわけではありません。しかしこういう基礎作業は本来、出版メディアそのものが責任をもって、その費用も確保して行うべきだと思いますが、実際そうなっていないなら、使命感を持ったまずは個人が立ち上がるしかありません。
しかし、これは結構時間と手間のかかる作業です。それを行うということは、「お金を稼げる」他の作業の時間を「削って」それに費やすことを意味します。
その状況下、この文章を読んでくださっている皆さんに下記のことをお問いかけしてみたいと思います。
a.こういう作業に対する補助金等はないものでしょうか? 私自身のリサーチ、知見のなかでは、人生経験の乏しさゆえ、思い当たるものがないのです。何かその辺りの知識や情報をお持ちの方があったらぜひ教えてください。またスポンサーになってくださる方などないでしょうか?
b.NOTE記事を一部有料にしたり、また有料記事についてそれをマガジンのような形にしてサブスク(定期購読)で、私の①②の働きを支援していただくことをご検討いただけないでしょうか? 1か月一口700円程度のことを考えています。
すなわち、私「クリ時旅人」の有料NOTE記事を読んだり、サブスク(定期購読)に参加したりしてくださいませんでしょうか? まだ、そのことほとんど開始していませんが、ぼちぼち始めて行きたいと思っています。
斬新なアイデア(ご特典)も考えています
いろいろとアイデアもありまして、例えば読んでくださる方々に、定期的に、新書サイズの40ページの本をお送りすることもできるという構想を立てています。これは、NOTEに載ったような記事を、活版印刷で印刷された本物の本に仕立て、表紙には、例えば40歳でプロボクシングヘビー級チャンピオンに返り咲いたジョージ・フォアマンの、グローブを付けた似顔絵を表紙にあしらった、そういうものです。
これは、「あだむ書房」による制作となります。
あだむ書房は私、三浦三千春が持っている正式の「版元」で、過去に何冊か、上述のようなねらい、内容の本を出版済してきております。