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10年近く前いちどだけ土佐の高知に行った。高知県立美術館で尊敬する写真家のコレクション展示があったのだ。その人は日系アメリカ人で戦争中は敵国人だと言うので、キャンプに収容されていた。その時にその人が覚えたのが写真術だったの。だから、何が人間を救うがわからない。
毎日新聞社から長徳アットワークが出たのは2001年だったと思うけれど、よくこんな売れない写真集を出してくれたものだと思う。そのしばらく前に高梨さんの写真集が出て、有名写真家の写真集が売れたであろうから、その後に、その編集者さんに、私の企画を話して、それで企画が通ってしまったと言うのは、勢いもあるかもしれないけれどこれは高梨先輩のおかげによるものなのである。
赤瀬川さんとのお付き合いは非常に長くて、私が大学生の時に赤瀬川さんが発行した本物の0円札を2枚手に入れた。現金書留で送った。その0円札の売り上げ代金と言うのは、赤瀬川さんは全てガラスの瓶に密封して保管していると言うところがアーティストである。1000円札事件で騒ぎになったから、1000円アーティストと言うこともできる。
かなり以前にガラクタ屋さんで2000円位で手に入れた。6 × 9センチの蛇腹カメラである。1910年頃から1945年頃にかけて、このタイプのカメラは実はスタンダードモデルであった。最初の頃はガラス甲板を使っていたのだが、ロールフィルムホルダーをつけられるようになって大幅に大衆化した。
赤羽から板橋のほうにむけて、歩行するのはそんなに簡単なことではなく山あり谷ありであって、しかも道が不思議な方向に回り込んでいるので、中山道を目指して歩くにしても方向が分からなくなって出たとこ勝負になることがある。
アメリカのケープカナベラルロケット発射サイトで、1000ミリのレフレックスニッコールにニコンSPのモータードライブ付をつけてポーズしている。サイモンニコンさんである。
このノートの使いにくいところは、画像をパノラマサイズの横画面でしか表示できないことだ。この画像はもともとは6 × 6センチのフルサイズで撮影されているのだが、まぁ書き込んでいく内容にはそれほど影響与えないから。
佃日記2003年月21日 火 アテネ 明け方に露台をうかがったら、ベタの曇りで月も見えず。朝になったら雲厚く、きたないアテネの空である。家人に電話。
ソニーがデジタルカメラに進出して、1番最初に出した一眼レフがα 100である。それまでのミノルタのノーハウをそのままもらってきて、カメラのネームをミノルタからαに変えただけのカメラである。
大昔1時流行した。小さなダウンサイズした有名カメラの実際に小さなフィルムを入れて撮影するのが存在したけど、あれもライカとかローライフレックスの存在感の基本のところをうまく押さえている。
夏は暑いので体力が低下しているからあまり重いものは持ちたくない。長年使っているiPad Proでも持ちたくない。それで家人のお下がりの方遅れのiPhone SEにこうして音声入力でテキストを書いている。
仕事の撮影でパリに来る時は実につまらないと思う。それに対して自分の撮影でパリに来る時はこれはワクワクする。1970年代は木星の4インチ× 5インチのカメラを持ってきたし、別のときにはソ連製のパノラマカメラを持参して撮影をしたこともあった。
今思い出すとバブルの時代の取材と言うのは大変な忙しさであって、年間260日以上ベッドの上で寝ていなかったのである。
日本の特徴は、建物が全てスクラップ&ビルドであって、30年もたたないうちに立派なビルがあった。大型もなく消滅したりする。