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1974年にウィーンのアパートメントで撮影されたものだ。まだ寒い時期であるが、おそらくお正月の記念写真として撮ったものではないか?
女の子の顔がわかるように正面から盗撮とか言うので犯罪を形成するらしい。スナップ写真を撮影して50年以上になるけれども、世の中はどんどんヘンテコリンな方向に行ってしまって、卒業アルバムなどでも個人が特定できるような顔写真の使い方はダメだと言うことらしい。かつてのスターリンが統治した東ヨーロッパよりももっと凄いことになってしまって、しかもそれを誰も危険だうざっと思っていないところが大問題なのである。
35ミリカメラの内部にフィルムカッターが装填されていると言う事は、フィルムがこれだけ高い時代になってしまうと知らない人からすれば、これは大切なフィルムを撮影の途中で切断して何度も使うようにするためのアイディアではないかと思われたりするのである。
良い写真へのアドバイス。テーマを決めて撮影をすると言うのは、目的のものに対する価値観で全てが決められているので、とんでもない方向違いの表現に行く場合もある。
そこら辺の端を取ると言うのはいかにもカメラメーカーが喜びそうな初心者のモチーフのように思うかもしれないが、実はお花をとるというのは写真家にとってはかなり重要な人生のテーマなのである。
デビットダグラスダンカンが朝鮮戦争を取材に行った時、持参したレンズに5センチと13.5センチのニッコールレンズであった。ニッコール伝説によるとその直前に世界的に有名な報道写真家はニコンのレンズ工場に行って、その優秀さにびっくりしたと言うのである。
53年前新婚前後の家計簿を家人が発掘してそれを朗読してくれたのが現代文学と言う感じがしてなかなかよかった。
10年近く前いちどだけ土佐の高知に行った。高知県立美術館で尊敬する写真家のコレクション展示があったのだ。その人は日系アメリカ人で戦争中は敵国人だと言うので、キャンプに収容されていた。その時にその人が覚えたのが写真術だったの。だから、何が人間を救うがわからない。
毎日新聞社から長徳アットワークが出たのは2001年だったと思うけれど、よくこんな売れない写真集を出してくれたものだと思う。そのしばらく前に高梨さんの写真集が出て、有名写真家の写真集が売れたであろうから、その後に、その編集者さんに、私の企画を話して、それで企画が通ってしまったと言うのは、勢いもあるかもしれないけれどこれは高梨先輩のおかげによるものなのである。
赤瀬川さんとのお付き合いは非常に長くて、私が大学生の時に赤瀬川さんが発行した本物の0円札を2枚手に入れた。現金書留で送った。その0円札の売り上げ代金と言うのは、赤瀬川さんは全てガラスの瓶に密封して保管していると言うところがアーティストである。1000円札事件で騒ぎになったから、1000円アーティストと言うこともできる。
かなり以前にガラクタ屋さんで2000円位で手に入れた。6 × 9センチの蛇腹カメラである。1910年頃から1945年頃にかけて、このタイプのカメラは実はスタンダードモデルであった。最初の頃はガラス甲板を使っていたのだが、ロールフィルムホルダーをつけられるようになって大幅に大衆化した。
赤羽から板橋のほうにむけて、歩行するのはそんなに簡単なことではなく山あり谷ありであって、しかも道が不思議な方向に回り込んでいるので、中山道を目指して歩くにしても方向が分からなくなって出たとこ勝負になることがある。
アメリカのケープカナベラルロケット発射サイトで、1000ミリのレフレックスニッコールにニコンSPのモータードライブ付をつけてポーズしている。サイモンニコンさんである。
このノートの使いにくいところは、画像をパノラマサイズの横画面でしか表示できないことだ。この画像はもともとは6 × 6センチのフルサイズで撮影されているのだが、まぁ書き込んでいく内容にはそれほど影響与えないから。