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良い写真へのアドバイス。テーマを決めて撮影をすると言うのは、目的のものに対する価値観で全てが決められているので、とんでもない方向違いの表現に行く場合もある。
10年近く前いちどだけ土佐の高知に行った。高知県立美術館で尊敬する写真家のコレクション展示があったのだ。その人は日系アメリカ人で戦争中は敵国人だと言うので、キャンプに収容されていた。その時にその人が覚えたのが写真術だったの。だから、何が人間を救うがわからない。
毎日新聞社から長徳アットワークが出たのは2001年だったと思うけれど、よくこんな売れない写真集を出してくれたものだと思う。そのしばらく前に高梨さんの写真集が出て、有名写真家の写真集が売れたであろうから、その後に、その編集者さんに、私の企画を話して、それで企画が通ってしまったと言うのは、勢いもあるかもしれないけれどこれは高梨先輩のおかげによるものなのである。
赤瀬川さんとのお付き合いは非常に長くて、私が大学生の時に赤瀬川さんが発行した本物の0円札を2枚手に入れた。現金書留で送った。その0円札の売り上げ代金と言うのは、赤瀬川さんは全てガラスの瓶に密封して保管していると言うところがアーティストである。1000円札事件で騒ぎになったから、1000円アーティストと言うこともできる。
モータードライブをつけたカメラの馬鹿騒ぎを思い出してみる
写真家の須田さんは神田富山町25番地であるから、神田駅周辺が彼の陣地なのである。それで須田さんとずいぶん若い頃はこの界隈を歩きまわったので、このMilk Hallはお馴染みの風景であった。
私の祖父は、街の発明家と言う触れ込みで、昭和30年代には結構有名だった。劇場で上映されるニュース映画に出演したこともある。その当時は万年筆の小さな工場を経営している映画ニュースが取材に来た時は、音羽の通りに電源車が止まって、そこから長いケーブルで路地の奥の木造2階建ての家までケーブルをつないでパルボの撮影生で撮影したのだから、時代が偲ばれる。
ずいぶん昔に外国のオークションで手に入れたライカのモータードライブである。犯行の動機と言うのはその外見が汚いと言うことだった。
私が若い頃に1番最初に飲んだ強い酒は英国製でビンのラベルに狼みたいな動物がプリントしてあった。今思うとあれはゴードンであったのだろう。
弥次喜多さんが創設した傍流写真は年代を重ねて今年で3年目か4年目かもう忘れてしまったが、真面目な写真表現を扱う。Facebookの場所としては素晴らしいと考えている。
マンハッタンのローワーウエストサイドからエイズで有名になったクリストファーストリートよりもさらに南ブロックが南に下がったところにアーティスト専門のアパートメントがある。ここら辺がニューヨーク州がアーティストに対してちゃんといろいろな対策をしていると言うわけなのだが、ダイアンアーバスはそこに住んでいてそこで亡くなったのである。
ニコンエフが出たのが1959年でその翌年に出たのがキャノンフレックスだったかな?その当時の私は夢の多い少年であってニコンエフを手に入れることが人生の最大の目的だと思っていて中学2年の時にニコンエフを手に入れていたから自分の人生はそれで完璧に達成したのだと思っていた。
足立区の梅島のあたりに今はもうなくなったがまっすぐな通りの突き当たりが小さな公園でそこに寂しいライオンというのがいた。今はその直線道路がさらに多くに伸びたので公園は光になってしまったのでライオンはもういない。それに関連して梅島駅から南の広大なマンション地域があるのだがそこが以前は大衆カメラペトリの本社と工場があったと言うことを知ってその界隈をぶらぶらしたのは10年ほど前の話だ。
ウォーカーエバンスは1930年代からアメリカ農業保全局のアサインメントで広くアメリカを旅行して貴重なドキュメンタリーを撮影した。ここら辺の写真撮影に関するスタンスがすごいなと思うのはウォーカーエバンス本人もそしてそのアサインメントを依頼した側も1連の仕事をドキュメンタリー写真と言う認識はあるけれどもリアリズム写真であるとは全く認識していない。