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チョートクのカメラノート📷🎥📹

カメラで本気出す。カメラに本気出す。ついでに写真芸術にも本気出す。2001年5月からスタートしたチョートクカメラ日記です。webマガジンは毎月定額1000円。単品で買うよりもかな…
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2024年8月の記事一覧

ウィーン時代の記念写真20240831

1974年にウィーンのアパートメントで撮影されたものだ。まだ寒い時期であるが、おそらくお正月の記念写真として撮ったものではないか?

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女の子の後ろ姿の存在感になぜ惹かれるのか?20240830

女の子の顔がわかるように正面から盗撮とか言うので犯罪を形成するらしい。スナップ写真を撮影して50年以上になるけれども、世の中はどんどんヘンテコリンな方向に行ってしまって、卒業アルバムなどでも個人が特定できるような顔写真の使い方はダメだと言うことらしい。かつてのスターリンが統治した東ヨーロッパよりももっと凄いことになってしまって、しかもそれを誰も危険だうざっと思っていないところが大問題なのである。

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ポーランド航空が初めて日本に飛んできた日20240829

2016年1月14日と看板に見えるけど、ポーランド航空がはるばるファーイーストの日本まで飛んでくると言うことには本当にびっくりした。ポーランド航空はあちらの呼び方ではロットと言うのであるが、どうも東ヨーロッパの国であるから、西ヨーロッパの航空会社からは差別されているようなところがあって、それにロットと言うのは、宝くじの一般的な総称であるから何かしっくりこない。

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リーと私20240828

 リーフリードランダーさんとのお付き合いは非常に長い。彼が1970年頃に出した。最初の自費出版のセルフポートレートを買うのに、郵便局でマネーオーダーを作って、それを封筒に入れて彼の住まいに送ったのである。ニューヨークのニューcityと言う所だった。つい最近まで、私はそれをNew York Cityと勘違いしていたのである。

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35ミリカメラのフィルムカッターの使い方20240827

35ミリカメラの内部にフィルムカッターが装填されていると言う事は、フィルムがこれだけ高い時代になってしまうと知らない人からすれば、これは大切なフィルムを撮影の途中で切断して何度も使うようにするためのアイディアではないかと思われたりするのである。

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1970年の大阪万博で覚えていること

54年前の話である。1970のエキスポに行ったことを記憶している人はもう後期高齢者になっている。それなりの貴重な体験であると思う。私が属していた日本デザインセンターもスタートしてから10年と言うので、高度成長期の波に乗ってきたので、ここら辺で社員教育には公的なイベントだと言うことで、会社の研修で大阪に行ったのは記憶しているが、何を見たのかは全く記憶していない。

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鋭角な風景に惹かれること20240825

良い写真へのアドバイス。テーマを決めて撮影をすると言うのは、目的のものに対する価値観で全てが決められているので、とんでもない方向違いの表現に行く場合もある。

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  ペリカンとニコンカメラ

私が撮影したウィーン時代のショットで非常に気に入っているのがこの写真である。だから何度も登場する。その理由には2つ要素があって、1つにはこのフィルムは現像する前にアクシデントでカットされたやつなので、画面の右側のほうに本物のウィーンの闇が広がっている点が1つ。

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フルストレッチリムジン

ビロード革命から20年近くが経って、プラハのあちこちに、こういうアメリカ帝国主義の象徴のようなフルストレッチのリムジンの姿が見えるようになった。何をしているかというと、別に人間を運ぶわけではなくて、そこら辺のカジノの宣伝なのである。広告費からしたらこれはかなり安く使えると言うことなのであろう。

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ナイトホークスを超える交番の夜

我楽多屋のにだいめさんはなかなか好きな写真家だ。撮影のために外国に行ったりすることもなくて彼の仕事のメジャーな部分はガラクタ屋さんから家に戻る時あるいは自転車でガラクタ屋さんに行くときに撮影されている。 夜の交番の写真だがなぜかステップにおじさんが座ってすまほーを見ている。この状態がまずすごくユニークである。我々の世代は交番を取り囲んで石を投げる男だから、ポリスボックスは敬遠しているのである。大体交番があるのは日本位でヨーロッパにもアメリカにも存在しない。 エドワードホッ

1973年

半世紀を超えた昔のことだが、1973と言う年代は私にとっては非常に大切である。家人が小学生の頃にウィーンに留学しようと心に決めたときに、これは誰かを一緒に連れて行かなければいけないと思ったらしい。それで結婚前後にその話を打ち明けられて、私もやる気になったのである。

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プラハのアトリエの雪明かり

プラハのアトレーにはトータルで34年間暮らしたであるが、その最初の10年ぐらいは戦前の建物そのものであったから、曇りガラスだし重くて人間の手で持ち上げられるようなものではなかった。それが最後の15年位の時間になって、モダンな現代の天窓に交換されたので虹も星も空も飛んでゆく人工衛星もスワンも実によく見えた。

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マンハッタンのガレージ

40年前には存在したけれども、今は存在しない素敵なマンハッタンのガレージである。Soho地区ととキャナルストリートの間に存在したこのガレージは、そのスタイルはアールデコと言うのであろうか、流れるようなフロントのファサードを持っていて、建築としても有名なものであったに違いない。

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ウィーンの路面電車の看板がよろしいな

ウィンの路面電車には数字で系統を示してあるのとルファベットで系統を示してある。2種類のものがある。その違いが私にはよくわからないが、私がお世話になったのはどちらかと言うとアルファベットの系統なのである。

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