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友人スミスは日立に来る前の話だけど、マンハッタンの6番街のミッドタウンにスタジオがあった。そこで有名なシリーズで、私が惹かれるのはこの窓から撮影した1連のニューヨーカーの姿である
オキュパイドジャパンの刻印のついた日本製品をコレクションすると言うのは趣味として良いのかわからないのかはわからないけれども、あの時代を思い出すには非常に正統派のコレクションだと思う。
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最近はそういう事はなくなったけれど、以前は日本放送協会からテレビの出演でお声がかかったりした。クラシックカメラブームで大塚寧々さんと私で90分ほど話をしたことがあった。
日本デザインセンターの豊富なハッセルブラッドの機材ロッカーはずらりと当時は高級な交換レンズが並んでいたのである。その中で広角レンズのほうはディスタゴン50ミリであって20本以上はあったと思う。
日本カメラから出ていたクラシックカメラブームの火付け役でもあった私の本 名機礼賛に登場するカメラである。はかりのメーカーの寺岡製作所がスプリングの専門の会社であることを生かして出した。スプリングモータードライブカメラだ。
マンハッタンの安いホテルプレジデント。高速で急降下するカラスと言うイラストがあった
1998年にリリースされた私のライカプログラムなのだけど、これがすごいのは、当時はメディアがビデオテープであったことだ。坂崎幸之助さんに常盤台の古本屋さんで買ったアルフィーの30センチのLPレコードを本人が喜ぶと思って、プレゼントしたらあんまり喜ばなかったので、こちらが意外に思ったことがある。LPレコードもそうだけど、ビデオテープも既に評価されないメディアなんだ
山登りをするときにならチョコレートと言うのは重要であろうが、そういう生活をしてないので、チョコレートを食べるチャンスと言うのは無い。ギャラリーバウハウスでコンプリメントとして出されるのがウィーンとか、プラハなどのかつてのハプスブルグ文化圏で提供されていた銀色の小さなお盆の上に、並べられたコーヒーのサーバーなのである。これはなかなか長年慣れ親しんだのでそういうものでコーヒーをサーブされると、気分は完全にwinである。
40年前にマンハッタンを撮影していたときの話である。当時流行していたニューカラーの真似をして、私もカラーフィルムで8 × 10インチのカメラで撮影をしようと思ったのだが、コストがかかりすぎるので、それが最初の50枚だけにして、それからもっぱら8 × 10インチのトライエックスで撮影した。今にして思うと、これが正解であったと思う。
人生の夢。ニコンエフを手にすると言う時代が元気な時代だった