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フルクサス運動で有名なアーティスト、マチューナスが世界中を放浪した後に、ニューヨークはマンハッタンのウスターストリートに暮らすようになった。
今から43年前の1980年頃のことだ。今はもう存在しない新宿駅東口のカメラのさくらやのエントランスの脇に小さな段ボールが山積みになっていて通行を阻害しているような感じだった。
若くして、世界の5つの最も高い山の頂を極めだと言う写真家と話をしたことがある。マウントエベレストの話になった時であるが、とにかく登山家として若くて体を鍛えていても決定的な酸素不足になったりするから、いろいろ呼吸をサポートしたりとか、そういう手段もあるらしいのだが、大切なのは、携行する品物を極力軽くすることなのだそうだ。
三木淳さんには色々とお世話になった。私が1982年にニューヨーク近代美術館に行ったのも三木さんのおかげである。文化庁の最終試験があると言うので、虎ノ門のテラコッタの2階建てか3階建てかのクラシックな建物に面接に行った。そこにいらしたのが三木さんと細江さんなのである。後は、文化庁の人
理化学研究所と言う所には、友人知人が勤務していたことがあるが、そのちゃんとした研究機関がカメラと言うようなちょっとソフトな物体を作っていたと言う事は私はほとんど知らなかった。それで以前リコーカメラの話をカメラノートスペシャルでやったのであるが、その時に非常に勉強になった。
写真家の春日さんが愛用した1960年代の東京を撮影した有名なワイドカメラの専用のファインダーである。
日本のあちこちを歩いているときに、どうしても、こういうシンプルな看板に目がいってしまう。定期的に長年観察しているのは、ポーラ化粧品の看板である。
かなり以前にガラクタ屋さんで2000円位で手に入れた。6 × 9センチの蛇腹カメラである。1910年頃から1945年頃にかけて、このタイプのカメラは実はスタンダードモデルであった。最初の頃はガラス甲板を使っていたのだが、ロールフィルムホルダーをつけられるようになって大幅に大衆化した。
ライカのコレクションとかコンタックスのコレクションは入門者向けである。それに対してハンガリーのブダペストで作られた35ミリ一眼レフ等はかなり上級者向けコースであると言うことができる。
佃島の部屋から目の前に中央大橋が見えて、その中央大橋を見ながら20年以上が経過したわけであるが、光によって端の存在感がいろいろ変わるのが面白い。晴れた日の午後の斜めの光になると直接見ることができないほどまぶしく見えてくる。これを家ではカサブランカ状態と呼んでいる。