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ウィーンに暮らしていた頃は目の前がドナウ運河でそこに鴨ちゃんがたくさんいた。散歩してるおじいさんが連れている犬が鴨ちゃんとお友達なのでわざわざ土手を降りて行ってその犬が鴨ちゃんと国際交流をすると言うようなシーンがあって私はそれを上から50ミリの付いたレンズで横画面で撮影していたのである。
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1980年の秋にドイツからフランスを経由して夜行列車でリスボンに着いた。2週間ほど街をウロウロしてその後コインブラに行ってまた列車でパリに戻ってパリで遊んでからまた列車でウィーンに戻った。当時は飛行機なんてとんでもなく高かったから列車で移動するのが普通の交通機関だった。
ウィーンの中心部からドナウ川を越えて北の方向に向かう路面電車は131番と231番と331番があった。ウィーンの路面電車の系統番号としては331というのが1番大きい。
使わないのに使い道がないのにそういうレンズが人気になると言うのは人間の浅はかな外特性である。
コカコーラを初めて口にしたのは中学生の頃である。今ではこんな事はないと思うが私は中学の理科の梅田先生と言うのに気に入られて彼の高田の馬場のアパートに泊まりがけで遊びに行ったりしていた。
偽物ライカ同好会ができてしばらく経った時、メンバーで東京の湾岸にあるまだ完成していない何とか言う名前の端を撮影に行った。その時のショットである。レインボーブリッジができるときに8 × 10インチのカメラで撮影に行ったのは朝日ジャーナルの連載の仕事だったかな?あれ以来湾岸地帯に巨大な橋ができると言う話は聞かなかったので結構気合を入れて撮ろうと思っていた
ニューヨークから戻ってきたのが1983年の11月でその翌年から当時知的な雑誌として注目を払われ尊敬を持たれていた朝日ジャーナルで1年間真ん中のページの見開きで東京キーワード図鑑と言うシリーズをやったのである。
このカメラメーカーのスタートはなかなかユニークであったらしい。大田区雪が谷でこの会社がスタートしたときの最初のヒット商品は金属製三脚であった。1950年代初めの頃の金属三脚と言うのはその当時の新婚旅行の必需品であってセルフタイマーで撮影するときには三脚はなくてはならないものであったのだがこれでちゃんと写真を撮ろうとするとかなりいい加減なクオリティーだった。
1947年にイタリアのフィレンツェで作られたライカタイプのカメラがエレクトラである。第二次大戦の後に世界各国で同じようなタイプのカメラがライカに対抗して作られた。敗戦国である日本とかイタリアでそういうカメラが作られたのは経済的ダメージもあるかもしれない。ライカと言うのは輸入品で高いものの象徴であったからだ。