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チェコ製の時計のブランドである。ビロード革命の10年以上前のことである。プラハの古い町並みの路地裏に小さな時計屋さんがあってそこで買ったのがこのブランドだった。日本へのお土産にも買ったことがある。当時はメカニカルウォッチで現行品と言うのはほとんどなかったからだ。
佃日記アーカイブ2003年5月2003年 5月 19日 (月) ★撮影に使用されたのと同型のエクレール写のカメフレックス35/16モデル。
四年ぶりの住吉さまの大祭が終わる日には、富岡さまの大祭が永代橋を渡るのである。
14丁目ユニオンスクエアのフラットアイアンビルディングは私もニューヨークにいる時はよく撮影に行った。やはり8 × 10インチで撮影すべきだと考えていろいろアングルを調査してそのように撮影したのである。フラットアイアンビルディングは1904年に竣工しているからこれを撮影したアルフレッドスティグリッツはまさにこのモダンなビルディングができたときにいち早く撮影をしたと言うことになる。
デジタルカメラの新製品発表会にもう15年ぐらい行っていない。15年前のデジタルカメラが私の最新型であって6,000,000画素位なのだけれども別に何の不便も感じていない。しかし時代に遅れる74歳であるからたまには有楽町のビックカメラなどに行こうと思っているのであるがもうっちカメラの新製品にはびっくりしない年代になっているので行くことができない。
この蜂カレーであるが明治38年に大阪の生薬屋さんが日本で最初に作ったカレー粉であると言う。明治の終わりにたやまかたいが国木田独歩を渋谷村に訪問して面白い記述があることを前から気になっていた。当時の人々の暮らしであるから電話でアポを取るとか言う事はなくて勝手にたやまかたいは国木田独歩の渋谷村の家に向かっていなければ上がり込んで本を読んで書き置きをして帰ってくるのである。
ヨーロッパのウィーンから戻ってきた直後に発見したカメラ屋さんが高輪のMacカメラであった。そこで当時確か3000円位で手に入れたかなり初期のペトリペンタが気にいっていたのはなぜだか考えてみる。
本日はおだやかな天候であって、日本の太平洋岸に棲んでいる人間の幸せをしみじみと 感じる。欧州の冬は暗いし長いし寒いし、なによりも困るのはそこに「色彩が皆無」なこ とだ。まあ、色彩がモノトーンだから、そこにコントラストとしてのデコレーションが映 えるということもある。
日本ロード公団と言うのを冗談で作ったのは5年位前であったか? ロードカメラと言うのが好きで長野県の岡谷で作られていた35ミリレンズシャッター式レンジファインダカメラで、感心するのは最初のモデルから最後のモデル間で7種類ぐらいしかないからコレクションするのは簡単なのであるがすべてのレンズについていたのが40ミリの広角レンズなのである。
上の画像は昨年の一月にウイーンのミュージアムでの、フェルメール(コピーではなくオ リジナル)である。
2012年8月30日 (木) この前、福田和也さんと日曜の朝から飲み出した時、上野の昭和通りから二本西に入った 小路を北上していて、なにかふっと空間の感じが落になったと思ったらそこに風変わりな 東京モダンの建て物があった。 その隣の飲み屋に入って、辛口の日本酒などを飲んでいるうちに、その「緩い空間」のこ とは酔いの彼方に忘れてしまった。
アルパ研究会 アルパ研究会は1992年の創立で、その役目はそのままツアイスイコンシナ研究会(最初はコシナ研究会)に移行したのである。 コシナの活躍はこの10年、実に目覚ましく、日本のカメラブランド構造を再構築するまでになった。
東武東上線の中板橋近くと言うのは私は最もなじみのない地域である。高校生の時は上板橋から40分ぐらいかけて高校に通っていた。その隣の駅は自分にとっては無関係と言うわけだが、何か渋いラーメン屋さんがあると言うことに気がついて1時帰るっていたのである。そのラーメン屋さんはなかなか入店するのも苦労で木造の引き戸を開けるには10年間位常連にならないと骨がわからないと言うそういうお店だ。上のアパートメントの鍵が癖があるんで長年住まないと骨がわからないのと同じことである。
京都の写真集をニコンサロンブックスから出した森さんが使っていたカメラが1番古いタイプのオリンパスワイドである。確かデザインと言う美術出版社が出していた雑誌の1970年頃に森さんの16ページ位のポートフォリオが掲載されていて京都の古めかしいウインドウに映ったカメラマンとカメラが1番最初のオリンパスワイドであった。それとどっか別の雑誌で見た記憶があるが森さんの顔写真があってそれはなんとオリンパスワイドを頭の上に乗せているのである。