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森さんの写真集京都が発行されたのは1969年である。スクエアなハードカバーの100ページ位の本であったがなかなか存在感があった。ニコンサロンとしては最初のニコンサロンブックスと言うシリーズなのでちょっと力を入れすぎてしまったようでイントロダクションの先生の書いている1分は何かガチガチの京都文化論みたいな感じで今の感覚からすると相容れないものがあるがこれは半世紀前の出版物のイントロダクションと捉えてみれば別に不思議なこともない。
1969年に当時在学中だった日大写真学科の学生で1番最初に銀座ニコンサロンで写真展をやったのは私だと言うことをずいぶん何十年も自慢していた。ところがその前に1年ほど遡るが森裕貴 ^_^さんがニコンサロンで京都をテーマにした写真展を開催していたのである。これは今回何十年ぶりに森さんのハードカバーの写真集を手に入れて初めて知るところとなった。
10年間使った日本発行のパスポートの最初の2つのアルファベットとその後のランダムな7桁の数字であるが10年間も旅行しているともちろん全部暗記しているから羽田空港に戻ってきたときにすらすら書くことができる。同行者がいたりすると頭が良いと褒められたりするのであるがそのくらいの事は何でもない。自分が写真家としてキャリアをスタートしたときのカメラの製造番号もよく覚えていて最初の1代目のニコンエフは6463471、2代目のニコンエフは6713702なのである。そして最初に手に入れたブラ
ライカの会社が軍用ライカと言うことでオリーブドラブの外相にしたらいかというのが200台位存在するのであるがこれもその1台である。確かロットは3つあって1番最後のロットの分はネックストラップアイレットが例の犬の耳ではなく普通のアイレットになっている。それと同時にオリーブドラブのレーザーの材質の目であるが最初の2つのロットは滑り止めのためにかなり荒い目になっているのに対して最後のロットだけは通常のライカのバルカナイトと同じで色がオリーブドラブである。だからコレクターの間では3つあ
「ペーターは日本で何を30個食べたんですか、チャップリンがエビの天ぷらが大好きで一度に30本食べたと聞いたことがあります。日本からお国に船で帰るのにエビの天ぷらを出してくれる船会社を選んだそうです。」
昔のフイルムカメラのオリジナルボックスには必ず商品管理のためにカメラのシリアルナンバーと同じ製造番号が鉛筆やペンで書かれている。アメリカではそれを全く専門に研究する人がいたりして、オリジナルボックスに同時に梱包されている保証書なども研究している人がいるのはすごい。昭和20年代のニコンのカメラなどは最終に出荷をチェックする人のオートグラフのほかに三文判が押してあったりするのでそこら辺までアメリカのコレクターが研究していると言うのは凄いことだと思う。
考えてみたらカメラメーカーの新製品発表会最後に乗ったのが15年前に出会ってちょうど今頃の暑い時期だったのでそれ以来、やめた理由にはPowerPointの説明ばかりでつまらないからである。それと暑い盛りであるからそこに来た若い編集者は全員爆睡しているのである。インターネットができる以前はフォトキナのプレス発表などはそこに行かなければ情報がわからないと言うこともあって我々も必死であったがインターネット時代になってしまうとなんとも生ぬるい。
1958年にその当時ニコンエフよりも進んだ一眼レフであったものに頭脳カメラがある。残念ながら立派な発表会までやりながらトラブルが多くて結局ほんのわずかしか発売されなかった。それで今ではカメラは動く動かないにかかわらずコレクターの間では1,000,000円と言う値段が付いているのは脳カメラである
2009/06/08チョートクカメラ日記 昨年の9月末にJTBの仕事でサンクトペテルブルグに行ったのである。 フィンランド湾に面した水の大都であって、まさに欧州を蒸留したようなロシアの美都だった。
25年ほど前にウィリアムクラインが彼の回顧展のためにプラハのミュージアムで写真展をやったときに数日間通訳の真似事とアシスタントみたいなことで一緒に行動したことがあった。その時を思い出してみるにプラハやウィーンの話にはなったのだが彼が長いこと住んでいるパリの話にはならなかったのにはそれがなぜであったのかいまだに不思議でならない。
12年ごとに間宮マガジン35のブームが来て今またそのブームが到来している。カメラ本体マガジンそして取扱説明書本箱フードとかいろいろあるのだがそれらは持っていて専用の革ケースがない。10年ほど前に専用革ケース付の米宮マガジン35を入手したがそれはボトムケースだけでアッパーケースはなかった。
30年近くライカの本を出したりして一見するとカメラに凝っているように誤解されているが実はカメラ等は何でも良いと考えている人間の1人である。結果とか記録が1番であると言う考え方からすればライカである必要は全然ないし私が暮らしていたオーストリアウィーンでも1番使っていたのはここに示すようなソ連製のカメラであった。その理由は単純であって要するにシンプルライフをしていたからだ。そこで不思議な心理状態になるのであるがウィーンの写真集などを編集しているときにブラックペイントのライカM3
50年前にオーストリアウィーンに行った時最初に手に入れたのは私の持っていたニコンのアウトフィットとウィーンの写真家の持っていたライカのアウトフィットの物々交換で手に入れたのがいくつかのカメラと8枚弾の頭ミクロンであった。しかしあーゆーレンズはすぐ飽きてしまうので、その後ずいぶんいろいろなレンズを遍歴したのであるが、これは35ミリレンズあるいは3.5センチのレンズのことであるが結局は1995年にコシナレンダーが新しいライカマウントレンズのラインナップを出すことになってその仕事を
私が10歳位の頃のアサヒカメラのフォトコンテストの上のほうの入賞者は1ページサイズに作品が掲載された。それで作品が横位置であるとすると90度画面は展開させて掲載するから見る方はそのたびに雑誌を90度回転させなければならない。少年の私はそれではそれで良いと思っていた。