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熱海/伊豆山にて「鉄(テツ)心」を考える

前回に引き続き、伊豆山の地で、テツゴコロについて書いてみます。ここにはかつて「熱海鉄道」という軽便鉄道が走り、テツ中興の祖、宮脇俊三が東海道線を眺める想い出の地でもあるのでした。ちょっとマニアックな伊豆山セカンドエピソードです!

熱海に私鉄があった!?「熱海鉄道」

熱海の駅前には、以下のような可愛らしい蒸気機関車が保存されています。こちらは、国鉄のものではなく、東海道線がまだ国府津から御殿場経由だった頃、小田原-熱海間を走っていた軽便鉄道の蒸気機関車です。小田原-熱海間の所要時間は2時間40分。現在の東海道線なら25分、新幹線で10分。(googleで検索すれば、自転車で1時間37分!)25kmをなんとものんびりと走っていたものです。

時速10km 客車定員は40-50名 明治40年から大正12年(関東大震災)に走る
伊豆山 逢初橋あいぞめばしを渡る軽便鉄道

さて、この軽便鉄道には、我らが偏屈テツおじさんの内田百閒ひゃっけんもご乗車しているのであります。湯河原の「天野屋」で療養中の師匠=漱石先生を訪ねていく場面にこんな一幕が、

旅行案内等で調べた上で、先ず国府津まで行つて汽車を降りた。当時は勿論まだ熱海線はない。国府津の駅の前から電車に乗って小田原へ行つた。
小田原から先は軽便鉄道である。おもちゃの様な機関車が、ピイピイ汽笛を鳴らしながら、客車を一台引つ張つて走つて行く。その小さな一台の客車にお客が一ぱい、ぎゅうぎゅうに詰められて、腰を掛ける事は勿論、天上は低いし通路は狭いし、起つてゐる事も困難である。
それから凡そ十年後の関東大地震の時、恐ろしい事の起こつた早川、根府川などを通り、断崖すれすれにゴトンゴトンと走つていつた。
勾配が少し急な所は、機関車の力が弱いから登りにくい。落葉が沢山あつたので、時候は秋だつた事を思ひ出す。その落葉が線路の上に積もってゐると、葉の油で車輪が辷つて登れない。どこかの切り岸の上で機関車が停まつて、缶焚きが降りて行つて、線路の落葉を取りのけた。

「つはぶきの花」より

という当時の情景が思い浮かぶ、百閒師匠による描写!

さらにこの「熱海鉄道」の前身には、人車鉄道なるものが走り、熱海への足を担っていたのでした。人力車で6時間のところをもう少しは早く行ったのでしょう。

開業は明治28年 豆相人車軌道ずそうじんしゃきどう
6~8人の乗客に対して、人車屋さんは2,3名 上り坂は明らかにきつそう

いくら人件費が安かったとは言え、収益的に無理があったようで、人車鉄道の経営はあまり長くは続かなかったようです。ただし、熱海というより、湯河原を愛した文豪たちが多かったことから、国木田独歩、芥川龍之介など文学作品の中に登場したりします。

小田原から先さきは例の人車鐵道。僕は一時も早く湯原ゆがはらへ着きたいので好な小田原に半日を送るほどのたのしみも捨て、電車から下りて晝飯ちうじきを終るや直ぐ人車に乘つた。人車へ乘るともはや半分湯ヶ原に着いた氣になつた。此の人車鐵道の目的が熱海、伊豆山、湯ヶ原の如とき温泉地にあるので、これに乘ればもはや大丈夫といふ氣になるのは温泉行の人々皆な同感であらう。

「湯河原より」国木田独歩

おっと、このままでは、豆相ずそう人車鉄道だけで終わってしまいそうなので、舵を切って、伊豆山に向かいます。

我らが宮脇俊三と伊豆山

テツ仲間の中でも、「読み鉄」、「乗り鉄」にとっては欠かすことが出来ない人物、宮脇俊三氏。中央公論で勤める傍ら、幼少期からの鉄心を失うことなく、休日には全国の鉄道を乗り倒し、常務まで行くも、国鉄全線の完全乗車を著した「時刻表2万キロ」を出版を機に退社(51歳)、文壇デビュー。
宮脇先生、熱海と伊豆山は思い出の地であり、特に伊豆山は、彼のテツ心の醸造に欠かすことが出来ない地なのでした。

本日はオレンジ眩い「東海バス」で伊豆山へ

伊豆山付近は箱根の南に位置し、岩戸山(734m)中腹で、大小の谷があるのと、温泉地ゆえ、難工事が続いた場所でもあります。
その伊豆山温泉の中心地から北の外れにある「泉越いずみごしトンネル」があるのですが、このそばで、少年宮脇は、兄と遊んだ時期がありました。少々長いですが、以下引用。

「その泉越トンネルの出口に近い伊豆山温泉に私たちは泊った。五日ぐらい泊ったように思う。忙しいはずの暮に、なぜ母が幾日も家を空けたのかわからない。旅館は千人風呂のある大きなもので、近くに釣堀もあり、それだけでも楽しくて、夢の国に来た思いだったが、兄と私は海からそそり立った斜面を登って行っては泉越トンネルの出口で待機し、汽車を見た。午前に行き、午後にもまた行った。  
 急斜面のつづく海岸線のなかでは、そこだけが原っぱのようになっていて、「初島」と書かれた標柱が立ち、そのとおりに初島の見渡せる景勝地であったが、汽車を待つ間に遊ぶにも具合のよいところであった。  
 兄と私はトンネルの出口で待機した。時刻表を見るのは私の係りであり、時計を見るのは兄の役割であった。
 当時の腕時計は今日とは比較にならぬほど精度がわるく、それとは逆に汽車の時刻は正確無比だった。だから、兄と私とは列車の通過時刻をめぐって口論ばかりしていた。つまり、時刻表を基準にする私は、下り列車の場合ならば湯河原発時刻の四分後、上りは熱海発時刻の三分後にこの地点を通過すると信じているが、兄のほうは自分の腕時計を正しいと思いたい立場であるから、どうしても「時計が進んでるんだよ」「いや、汽車が遅れてるんだ」という議論になった。
 言合いをしたり、石ころを拾って野鳥めがけて投げたりしていると、トンネルの出口から轟々と汽車の響きがしてくる。私たちは緊張して坑口を見つめる。
 響きが大きくなり、地鳴りのように高まって、ヘッドライトがトンネルの内壁を照らしたかと思うと、ブドウ色の電気機関車が姿を現わす。人気のないトンネルの出口に立っていた私たちは思わず後ずさりした。
 列車は頻繁に通過した。旅客列車は上り下り合わせると、ほぼ一時間に四本、そのほかに貨物列車がたくさん通った。貨物の本数は旅客列車と同じか、あるいはもっと多かったかもしれない。こんなにも貨物列車が走るのかと思った。時刻表には、もちろん貨物列車は載っていなかった。

増補版 時刻表昭和史 宮脇俊三

また「私の途中下車人生」という別の本では、
「私と兄は泉越トンネルの出口のところに立っては、つぎつぎと通過する汽車を一日中見ていた」
「汽車と初島、このシーンはあとで何度も夢にみました。夢でもそのときの様子がはっきり映っているのです。~ 少年時代の旅の思い出の中で、これはかなり強烈なたいけんだったようです。もっとも、初島や汽車がちょっと見えただけで、目が覚めてしまうのですよ。いまでも、この夢を見ることがあるんです」

と、まあこんな具合で、ネイティブ・テツ(物心ついた頃には鉄道が走っており、幼少期にテツとして萌芽!?)にとっては、こんな忘れがたい、夢に何度も見てしまうような思い出が少なからず、1つ、2つはあるのかと思われます。

泉越トンネルの今

熱海駅から東海バスの伊豆山循環で、「小学校入口」で下車。崖の下に泉越トンネルが見えてきます。

右下に伊豆山 「鳴沢」から北に延びる長いトンネルが泉越トンネル (国土地理院1/25,000)

国土地理の不断の努力のおかげで、地形図も航空写真も容易に見ることが出来る時代になりました。感謝!
このトンネルは、岩盤が緩く、複線ですが、強度を確保するため、一本ずつ掘っているので、トンネル自体は単線二穴になっています。

二つ穴の泉越トンネル (↑現在)   (国土地理院 GSIMapsより)
60年代の泉越トンネル付近 南側は確かに開けており、かつては原っぱだった模様

現在の様子はどうかと言いますと、下記の通り草むらに覆われたトンネル開口部を崖の上から眺めることが出来ます。

トンネルの坑口部分は建設当初のままなのでしょうか
おっと、時刻表に載っていない貨物列車!
開口部真上から見た場合 左側は私有地リゾートマンション? 昔は「原っぱ」

左側の私有地(注:今は立ち入り禁止)に宮脇兄弟は佇み、トンネルを見つめて、過ぎ行く列車に思いを馳せるのでした。宮脇氏の原風景の一つというところでしょう。

宮脇俊三、再び熱海へ

宮脇氏は、終戦を米坂線の今泉駅前で迎えることになります。これも「増補版 時刻表昭和史」に載っている読み鉄にとっては有名?なエピソードですが、終戦の4か月前に宮脇氏、東大の理学部の地質学科に入ります。
そして、西洋風だった自宅が進駐軍に接収されるかもしれないと宮脇の父が判断し、昭和20年末に、安く自宅を売ってしまいました。そして、知り合いの空き家の別荘を借りることなり、熱海に住むことになります。

駅開設当初から変わらない駅舎 昭和10年(1935年) 終戦後も似たような雰囲気だったのか…

戦後のどさくさの熱海駅の様子は以下のよう。

そのころは、熱海の駅もごったがえしていました。東京へ行こうと思って、朝ホームに待っていると、超満員で、窓は破れ、ドアもはずれかけているような列車が、丹那トンネルを抜けてくるんです。中が混んでいるから、銭湯の電気機関車のデッキにも、人が鈴なりです。冬だと、もう、凍えそうな感じで入って来るんです。そのなかに、必死で乗り込むわけです。
 一方、待っているあいだに、進駐軍の専用列車が通ります。編成は短いんですが、暖房用のヒーターがついてまして、後ろには展望車みたいなのがくっついてます。もちろん食堂車もあれば、寝台車もあります。戦争で焼け残ったいい車両だけ集めているわけですね。食堂からは、油と肉の入り混じったいい匂いがプーンと漂ってくるんです。なんともねたましかったですね。戦争に負けたんだなという実感をしみじみ感じました。

「私の途中下車人生」

今は、東海道線の上野・東京ラインは熱海止まりの列車が多いですが、JRになる前は、東京から静岡とか沼津までの普通列車は結構ありました。丹那トンネルから抜けてきた列車はそのまま東京方面へ向かうのでした。

その後の宮脇氏の熱海の想い出は、どのように集めたか学生のグループを作り、ハイキングしたり、同人誌を出したり、芝居をやったりと戦後の大変な時期だったと思いますが、文化活動に精を出すのでした。そのうち、熱海には文豪、著名人が多くおり、文化人を呼んでの座談会などもやって、青春のひと時を過ごしたのでした。

熱海駅の思い出

さて、ここから私の小テツ時代のお話し。
時は70年代後半、この頃はスーパーカーブームがあり、各地でモーターショーがあり、少年たちの心をつかんでいましたが、そのあと少し遅れて、空前のブルートレインブームが起こりました。これが80年代半ばくらいまで続くのでした。当時、国鉄が仕掛けたものであったのは確かですが、子供たちにとっては、そんなことはつゆ知らず、まんまとその流れに乗せられるのでした。すでに幹線の蒸気機関車はほとんど姿を消しましたが、L(エル)特急が全国を駆け巡り、アニメでは銀河鉄道999、フルムーン夫婦グリーンパスが81年に初めて発売されたりと、鉄道ネタは事事欠かない時代でした。

2010年7月 上記の駅舎の雰囲気を残して (wikiより)

小学校2年生の頃から火が着いたテツ心は、ブールートレイン大百科とか、カード?シール?みたいなくじが駄菓子屋に並び、あっという間に全国を走っているブルートレインやL特急の名前と行先も同時に頭の中に入っている。近場の私鉄駅もすべて覚え、東海道線は東京から豊橋まで各駅停車で暗記しているのでした。(名古屋や米原あたりまで行かないところが軟弱笑)
ところで、小テツ心を醸成する条件の一つは、やはり生活空間の間近に、鉄道があることでしょうか。自分にとって幸いだったのは、自転車で数分のところに東海道線が走っていたこと。いくつかあるのうち、二つのあそび場は東海道線を眺められるところでした。
宮脇氏の幼少期は渋谷の宮様の敷地の原っぱがあそび場で、そこから山手線を眺めています。
内田百閒先生は、少し距離がありましたが、高校の頃に通っていた自転車で行けるところに山陽本線が走り、西に東に向かう長距離列車を眺めるのでした。岡山駅は今でも西の鉄道の拠点、そんなことも影響していたかもしれません。ちなみに百閒の名も、岡山駅と東岡山駅の間に流れる川は「百間ひゃっけん川」と言い、ここから命名。

東海道本線、山陽本線を走る長距離列車の存在は、当時のテツ一族にとっては胸ときめかすもので、ヘッドマークや寝台車の車両もさることながら、「ああ、これに乗れば、鹿児島や長崎、山陰、果てしない西の世界にいける!」と思いを巡らすのでした。
そして夕暮れ時に、あそび場から眺めるブルートレインを見るだけでは飽き足らず、毎週土曜の夜、三島から二駅先の熱海に向かうのでした。小2で夜だとさすがに一人では行けず、同伴者は祖父のじいちゃん。

小2の頃ポケットカメラで撮影 (熱海にて)

愛する孫とは言え、今考えるとよく付き合ってくれたものです。
実家から出て来た当時の僅かな写真は、小2の誕生日に買ってもらった小さなポケットカメラで撮ったもの。画質は悪いですが、必死に撮っていたと思われます。

あさかぜ 博多行き
ブルートレイン「富士」24系25形 フラッシュ焚いて、なんとか撮影

さて当時に近い「ごお・さん・とお」(昭和53年10月)の時刻表を見てみれば、「さくら」「はやぶさ」「みずほ」は熱海を通過しますが、「富士」「出雲」「あさかぜ」は熱海に止まるので、ここまで見に来るのでした。

JTB時刻表 「ごお・さん・とお」改正号 (1978年10月)
「瀬戸」「紀伊」「銀河」と深夜まで夜行が走ります!

下りホームの中ごろにあるスナックコーナーで温かい「ホットドック」を食べて、宇野行きの「瀬戸」(懐かしい!)まで見るのが限界。帰り電車はもう居眠り…。
この年の暮れ、テツ心、やむにやまれず、じいちゃんと共に、初めて特急「富士」に乗り、今はなき「西鹿児島」まで行くのでした。朝焼けの静かな瀬戸内海、夕暮れ時遠くに見える桜島は今でも記憶に残っています。

ブルートレイン「富士」 東京-西鹿児島を約1日かけて走る

再び黄金期は来るのか…

熱海駅は今でも結構、撮り鉄仲間の人たちには、好かれる駅なのか、結構、カメラ構えている人いるんですよね。
昭和最後の黄金期にはご覧の通り、日中も、急行「伊豆」「東海」、特急「あまぎ」なんかも走り、伊東線もあったりして、1日いても、飽きなかったでしょう。

JTB時刻表 「ごお・さん・とお」 午後の時間帯

コロナや台風などの災害も相まって、地方のローカル線の縮小は拍車がかかり、一度災害が起こった後の復旧もかなりの時間を要しています。引き続き、テツ受難は続きます。新たに寝台夜行が走ることもないのでしょうか。走ったら、乗る人もそれなりにいると思いますが、おそらく数本走らせたところで、費用対効果は全くないんでしょうね。

こんな写真も出て来た 20系「あさかぜ」

東京駅出発前の、ブルートレイン「みずほ」の食堂車、こんな光景を今一度見たいものです。ここに至るには、、、我らテツ友の情熱と、JRの鉄魂にかかっているのか!

食堂車の共食スタッフ (滅びゆく鉄道名場面より)

いつの日か、新しく青い寝台夜行が走るようになった暁には、東京駅でみなさん一緒に見送りましょう~

セカンドエピソードのはずが、一番ロングな記事になってしまった…。
長々とお付き合いいただきありがとうございました!

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