やむにやまれぬ吉田松陰~下田の企て②
遅いお昼の地魚回転ずしの後は、得意のレンタサイクルを道の駅で借りて、続けて、吉田松陰とペリー来航の足跡を辿ります。
吉田松陰、踏海企ての地~弁天島
さて、やむにやまれぬ吉田松陰と同行していた金子重輔が、いよいよ、ペリーの艦隊に乗り込もうとしたのは、1854年4月24日の夜、旧暦で3月27日。この時の詳細は、松陰も鮮明に記録しており、「三月二十七日の夜の記」という有名な日記があり、さらにペリーの日本遠征記ほか、アメリカ側の記録にも記載があります。舟を漕ぎ出したのはこの弁天島から。
よく見ると、弁天島の祠が、洋風笑。鳥居はあるが、これはさすがに創作か。
踏海企ての日中、艦隊の士官たちが歩いていると、二人組の密偵が監視しているように付いてきて、密かに近寄ろうとしていると分かった。近寄って来たら、二本の刀を帯び、幅広で短い立派な金襴の袴をはいていた。彼らは礼儀正しく、洗練された物腰をしていたが、明らかに落ち着きがなく、やましいことをしているかのようなふるまい。そのうち一人が士官に近づいてきて、時計の鎖をほめるような振りをしながら、畳んだ手紙を士官の上着の胸に滑り込ませた。(これが「投夷書」!)二人は意味ありげに唇に指を押し当てて、秘密にしてくれと懇願してから、足早に立ち去った。この書に書かれていた二人の名前は、瓜中万二、市木公太)当然、偽名で、この二人こそ吉田松陰と金子重輔。こんな詳細な記述がペリー日本遠征記などにあるのでした。
その後、二人は、夕方に、弁天社下に魚舟を二隻見つけて大喜び。
そのあと、蓮台寺に戻って湯に入り、夕食を済ませて、弁天社中に入り一寝入り…。もうその頃は真夜中。
松陰の日記には以下のよう記されている。全文読んだら、たまらなく面白いのですが…。
「午前二時、弁天社を出て漁舟を乗り出す。乗り出してみたら、櫓杭(櫓をこぐときの金具)がないのに気づいて、ふんどしを縛って、こぎ出すも、ふんどしも切れて、帯を解いて縛る。
ミシシッピー号にたどり着くも、艦上より怪しんで光(燈籠)を下ろす。漢字で『吾れ等メリケンに行かんと欲す、君幸に之を大将に請え』と書き艦上に上る。しかし、米人はポーハタン号に行けと指示したので、そちらの船に行く。艦上に上る時、米人は波高く小舟が艦にぶつかる事を怒り、棒で突き放ち、小舟は遠くさる。米人ウイリアムスは日本語を解し、彼と対話する。
筆をかりて米利堅にゆかんと欲する意を漢語で書く。ウイリアムス云わく、『何国の字ぞ』。予曰く、『日本字なり』。ウイリアムス咲いて曰く、『もろこしの字でこそ』。また云わく、『名をかけ、名をかけ』と。
(この名前を見て、昼間に士官に渡した投夷書をウイリアムスは持ち出してきた)ウイリアムスは国交が近いうちに開けるので、その後にせよ。今日は直ぐ帰れという。
遂に帰るに決す。ウイリアムス曰く、『君両刀を帯びるか』。曰く、『然り』。『官に居るか』曰く、『書生なり』。『書生とは何ぞや』。曰く、『書物を読む人なり』。『人に学問を教ゆるか』。曰く、『教ゆ』。『両親はあるか』。曰く、『両人共に父母なし』(此の偽言少しく意あり)。~(略)『米利堅へ往き何をする』。曰く『学問をする』時に鐘を打つ。凡そ夷船中、夜は時の鐘を打つ。余曰く、『日本の何時ぞ』。ウイリアムス指を屈して此れを計る。然れども、答詞詳かならず。
(上記のような問答がこの後も続き、松陰の日記に綴られ、)
結局、米船に送られ岸まで運ばれる」
ということで、櫓を漕げずに、ふんどしほどいて慌てふためくさま、臨場感のあるウイリアムスとの対話、両人に父母なしは、偽言で、はかりごとという注釈まで付けてしまう何とも吉田松陰らしい日記なのでした。
さて、ペリー提督日本遠征記にはどんな記載があるかというと、こちらも負けず劣らず面白い。国交を結んだばかりで、当然、公人としてアメリカに連れて行くわけにはいかないのですが、提督個人の感想も残されています。
数日後、ある士官が、二人囚われている牢獄に近寄ると、板切れのようなものをその士官に渡したのでした。
と、ペリー遠征記には、松陰らの切実な思いが遺されているのでした。ペリーは二人の日本人が投獄されているという報告を受けると、この二人が艦を訪れた者と同一人物かを非公式に確認させたともあり、彼らの行く末を案じてくれたのが伺えます。
吉田松陰と、金子重輔は、そのあと、江戸に護送されるのですが、その途中に、泉岳寺門前で、赤穂浪士の仇討ちと自分の踏海の重ねて詠んだ歌は…、
かくすれば、かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂
初の米領事館が置かれた「玉泉寺」とハリス
蓮台寺温泉、ペリー上陸の地、吉田松陰、踏海の弁天島とちょうど時系列的に訪ねた最後の史跡は、ここ「玉泉寺」。日本で初めて米国領事館が設置された場所、その期間3年。初代の領事はタウンゼント・ハリス。
ハリスもまた克明な日記を残していて、食べ物には相当苦労しています。とにかくお肉が食べられません。当時の日本人は、牛肉を食べることはしなかったので、食べられるのは鶏肉、これは高値で買うしかなく、業をいやしたハリスは鶏小屋を作らせ自分で飼うも、イタチに食べれらたり…、時には奉行所から猪や鹿の肉が届いて、大喜び。残った肉はハムにして保存。
風土の違いと交渉の困難さもあって、体調を崩し、ハリスは牛乳が飲みたいと懇願。これもまた日本に無い文化。農作用の牛の乳を農家から集めて、飲んだということで、境内には、それを記念して「牛乳の碑」がある笑
ペリーが来た時には、アメリカ人は牛を見たら食べられるから山の奥に隠したと言われ、ハリスもまた牛は買えなかったようです。上海から山羊を13頭買い入れ、自分で乳を搾ったとあります。なんとも甲斐甲斐しく、リアルな記録。
お寺に米国領事館関連の館があるのも不思議な感じですが、館内には、大きな神社の宝物殿くらいの歴史的展示物。残念ながら撮影禁止ですが、当時の領事館で使われていた品々はもちろん、ハリスに給仕した「唐人お吉」の展示、吉田松陰が着用していた袴なんかもありました。
玉泉寺は和親条約後、アメリカ人の休息所だけでなく、ロシア人も滞在したりと、国際色豊か。ハリス自身は下田には3年弱の滞在ですが、なんかはもう完全に「暮らし」ています。鳩舎を作ったり、贈られた二匹の犬には、「江戸」と「みやこ」と名前をつけ、カナリヤや鶯まで飼育。公務の傍ら、かなり投での散歩もして、富士山を眺めたり、下田の祭りも記載もあります。
アメリカ人の5体の墓地からの眺め、海はわずかしか見えませんが、当時の図絵が残されています。
ハリスの使命は、本格的な国交の足台となる日米修好通商条約の締結。これは教科書的には、不平等条約とか言われていますが、当時の日本の立場や状況、人権に対する理解などを考えると、かなり現実的な条約であり、ハリスの粘り強い交渉で、友好的な条約であったと、下田の人たちは認識しており、いろいろと調べれば調べるほど、その解釈の方がしっくり来ました。
ハリスの帰国が決まったときには、老中の一人が「貴下の偉大な功績に対しては、何をもって報いるべきか、これに足るものはただ富士あるのみ」という言葉を贈ったそうです。
以下、碑文の日本語訳にはこんな記載が、ハリスの自負心とこの先の日本を案じたような一文が印象的です。
須崎の民宿「源兵衛」
まだ日が傾かないうちに、下田の外れ須崎の海岸の民宿に向かいます。
バス停のすぐそば、喜び勇んで、路地に入り、「今晩、よろしくお願いします!」と伝えると、「お客さん、隣りだと思うよ」と。アレ!?
下田から須崎海岸まではバスで十数分、このエリアは江戸の初期にも栄えていて、御番所(海の関所)が置かれたのもこの須崎、戸数は今と江戸初期も変わらないようで、かつての下田の風情を味わうにはこの場所ではないか、と思うような港町です。
しばらく海岸沿いを散歩します。目指すは須崎半島最南端の恵比須島。
海風が爽快、気持良いですが、満潮のピークか、海岸沿いは歩けないので、島の中を歩きます。入り口で一人すれ違いましたが、もう誰も島には居ません。
さて、お風呂は、温泉になります。蓮台寺や下田のいくつかの源泉から、はるばる引湯していて、小さい湯船ですが、ものすごい流量のお湯がドバドバ流れています。泉質は弱アルカリ性(PH8.1)単純泉、泉温51.8℃ですが、本日は、ちょうどよい温度。結局、計4,5回浸かりました…
夕飯は、お刺身と金目鯛の煮つけがメイン。ひとり旅のリーズナブルな値段で、この食事は嬉しい限り。ひとり旅はこれくらいで十分満足です~
早めの就寝Zzzzz…
再び恵比須島へ
次の日は、快晴!再び恵比須島に向かいます。
さすがフィリピン海プレートに乗ってやってきた伊豆半島の小島で、海底火山の地層を観察できる貴重の場所なのでした。
再び、須崎の港に戻ります。下の伊豆石は、どうも西伊豆の方から運ばれてきた途中、この須崎のあたりで破船したところから打ち上げられたらしい。江戸城の城壁は伊豆から運んで行ったものが多いんです。
今日の伊豆は、「青い海に青い空」
お世話になりました民宿「源兵衛」。ご主人に聞けば、須崎の中でも一番最初に民宿を始めたとか。台帳が残ってないので言い伝えらしいですが、ということは伊豆で一番最初の民宿かもしれませんね。是非続けて欲しいです!
さて、駅前には寝姿山へ登れるロープウェイがあります。時間があれば、山頂からの眺めも良し。昔はこの上にも砲台があったとか。試し打ちしたら、ポトンと海に落ちて、危うく人家に当たる所だったとか。黒船迎えるまともな武器はほとんどなかったようです。
今日の伊豆急最高の絶景スポットは快晴、左に伊豆大島、小山のような利島、右奥に平たく新島が見えます。
湯けむり漂う伊豆熱川を抜けると、伊豆北川。昨日は土砂降りの雨でしたが、やはり東伊豆の旅は、生い茂る南国風の深い緑の山々、青い空に、青い海が似合います。今日はこのあたりで、おしまい。 (2024.6)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?