さて、毒消し売りの旅4回目、坂口安吾が残した毒消し売りについて残りの部分を追いかけます。
廃村になってしまった毒消し売りの村の話、昭和30年当時の毒消し売りの姿が綴られています。
角海浜の今…
毒消し売りの製造場の主人が角海浜のことを語り始めます。
同行した記者と安吾は、感動のまま、角海浜に行こう!と意気投合するも、主人に「とても行ける道ではない」と、制止される。
「とても、とても。いまでも道らしい道がないのです。ま、舟で行くより仕方がないが、冬の海ではそれもできません」とのこと。
昭和30年には、もう角海浜から毒消し売りは出ていないことが分かり、さらに、主人によれば、今は石を切りだして生計をたてており、角田浜の集落はこの角海の石で塀を立てているのが少くないそうだ。
安吾は季節が変わったら、行ってみたいとだけ残しています。
ところで角海浜ですが、国土地理院の空中写真からもその様子は伺え知ることができます。追いかけられる写真は下記の通り。
wikiによれば、60年代後半で戸数は一桁。限界集落となり、原子力発電所建設計画が立案された。1971年には本計画に基づいて集団離村が行われ、1974年7月には最後の住人がこの地を去って完全に廃村となった、とあります。
安吾だから聞き出せたかもしれない…
この流行歌とは、1953年(昭和28年)に発売された宮城まり子の「毒消しゃいらんかね」という歌謡曲。この歌によって、「毒消し売り」の存在が全国的に知れ渡るようになったと同時に、少なからず「毒消し売り」という生業の寿命を縮めてしまったのは事実でしょう。
安吾が接した毒消し売り
この文の後半、「毒消し売りの生態」として安吾が聞き調べ、接した毒消し売りの現状について詳細に記されています。全文載せたいくらいですが、冒頭部から…(一部繰り返しにはなりますが…)
前述の流行歌のことを方言交じりでまくし立てたのは、この部落の指折りの親方でした。
上記のような生活がどのくらい続くかといえば、
「昔は五月半ばに行商にでて十月には帰ったものだが、今では年中である。正月とお盆と四月と十月の村祭りに帰るだけで、~(略)
全員例外なくそうである。個人行動は許されない。むろん新婚の妻も古女房も例外ではなく、年に十ヵ月は旅にでているのである」とのこと。
そして、万が一、旅先での色恋沙汰が発覚すれば、毒消し売りの仕事はもうできず、家族まで非難され、村には居られないような厳しいきまりがあったようです。同時に、問題が起こった場合には、得てして、亭主の方が我慢する。安吾の言葉を借りれば、
「女が胸をさすってジッと我慢するうちは落第なのである。男がジッと我慢するようにならないと本当の平和は到来しないものなのである。なぜなら、女房がジッと我慢するのは破産型の平和で、土蔵や倉がたつどころか土蔵や倉がつぶれる平和であるに反し、亭主がジッと我慢する平和は土蔵や倉がたつ平和だからである。」
年端も行かない少女から四十半ばの女性までが、このような生活をし、なかば女中の仕事までしていたという…。
ここまで書きながら、昔、新潟出身の「田中角栄」と懐刀の「後藤田正晴」が日本列島改造論のことでやり取りた話を思い出しました。
田中角栄が、その計画を出した時に、政界に入った後だったか後藤田正晴が「なんであんな計画を考えたのか」と問うたところ、「豊かな土地の徳島出身の君には分からないだろう。東京の旅館で働いている女性はみんな新潟の女性だ、女性まではるばる出てこなければ、生活できない辛さは君には分からない」(正確な文言はうる覚え…)というやり取りがあったという。
ところで、どんな状況であろうと「毒消し売り」の女性たちにとって、愛すべき夫と子ども、家族がいるその場所が、真のふるさとであったのは下記の通り。
安吾と記者が角田浜に訪れたのは2月、正月の稼ぎ時からそろろそ毒消し売りが帰ってくる頃であったがほとんど女性はいなかった。それでもちょうど1日前に村に戻っていた毒消し売りの一組があって、「私の懇願も出しがたく、死んでも村では見せたくないという毒消し姿をしてくれた」と撮影に応じてくれたようです。残念ながらグラビア参照となっていますが、写真は見当たらず。
珍しがった村の若者が覗きみるも、
「さすがに千軍万馬の行商に胆をきたえてもいるから、撮影が終ると、再びポッとあからみながらも、男たちが首をつきだしている窓の下へツと駈け寄って、
『ポマードいらんかね』」とからかった。
安吾は村を去る間際、二人の毒消し売りの娘にくぎを刺される。
ということで、これ以上、多くは語らずとして、今日は終わります。
次回は現在手に入る毒消し売りの書物を少し紹介しつつ、続けてみます。お付き合いいただき、ありがとうございました。