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毒消し売りの旅③(安吾新日本風土記より)

毒消し売りの旅③、今回は、坂口安吾の「安吾日本風土記」を読んでみます。彼が残したものは、また別の角度からの「毒消し売り」の姿となります。(上記の写真は、新潟市の写真家小林新一氏が昭和30年代に撮った「報じられなかった写真」から引用)

坂口安吾の日本風土記

坂口安吾と言えば、「堕落論」くらいしか知らなかったのですが、48歳の生涯でものすごい広いジャンルの文章を残しています。
「青空文庫」の坂口安吾のインデックスを見れば一目瞭然。(ちなみに青空文庫は、著作権の消滅した作品をインターネットで自由に閲覧出来るようにするもの、昔の職場で関わっていた人がいて、もう20年以上前からの活動。
ボランティアで成り立ってます!)

そして、この「安吾新日本風土記」は1955年(昭和30年)、奇しくも、坂口安吾が脳溢血で倒れ亡くなる直前に発表された、絶筆の文と言えなくもないものになります。全文は青空文庫で読むことが出来ます。(ただ、彼の文章全般、独特でもあり、今の時代には合わない表現も多々あり…)
さて、これを書く発端は、下記のとおり。

宮崎を旅行していた折に、「クスリは富山の広貫堂」との広告をみて、富山の薬売りにお世話になったのを思い出し、ついでに同郷の「毒消し売り」についても書いてみようということで、『富山の薬と越後の毒消し≪富山県・新潟県の巻≫』とのタイトルで始まります。

関東の農村では村々の入口に「押売りの村内立入りお断り」という高札がかかげてあるが、富山の薬売りと越後の毒消し売りは特別だ。毒消し売りは現金引き換えであるが、これもその歴史と、売り子が女という点に親しみがあるのであろう。毒消し売りはちょッとした美人系で、その伝説によっても名物化しているようだ。

安吾日本風土紀 富山の薬と越後の毒消し

と、やや俗っぽい感じです。それも理由があり、坂口安吾が越後の生まれのためでもあります。

 私は越後の生れだ。ふるさとは書きづらいもので、よく云うぶんにはキリがないし、欠点は知りすぎているから悪く云うぶんにもキリがない。過不足なく見たり書くにはヤッカイなシロモノだ。だからこの仕事では敬して遠ざけていたのであったが、富山の薬と思いついた瞬間に、ついでに越後の毒消しもやるとふるさとが好便に処置できるということに気がついた。
 越後の女はよく働く、と云われている。しかし、よく働く女は越後女とは限らない。日本ではどこの土地でも女が牛馬なみに働いているのである。
 越後女の特例といえば、越後には農村にすらも芸者がいる。いわゆるダルマとはちがって、むろんその方の勤めもするが、立派に三味線も踊りもできる芸者である。そして越後の芸者は総じて「私は越後の生れです」ということを誇りとしているのである。他国では誰しも生れた土地で芸者や女郎にでたがらないものだ。ところが越後では土地の女でないと芸者や女郎のハバがきかない。親子代々芸者というのがザラであり誇りですらもあるのである。生れた土地で芸者にでるのが誇りやかである風さえなきにしもあらずである。

安吾日本風土紀 富山の薬と越後の毒消し

このあたりは、すごい書きっぷり…(^^;
このあとの弥彦山という聖山があり、それに連なる角田山の表(越後平野に面した穀倉地帯)が芸者の産む本拠、産地であり、裏にあたる日本海側の孤島のようなところが毒消しの本拠であり、後者には誰も足を運んだことはない、とつづきます。歴史的に独特な越後はここだ!と。
また、「越後の女はよく働く」というこのフレーズは、「毒消し売り」の女性たちがその伝搬に寄与していることは間違いないでしょう。

富山の薬売りについて

富山の薬売りについても、その成り立ちから丁寧に記録しています。

富山に七十いくつの製薬会社があるうちで、いまはもうこの反魂丹というものを造っているのは一二しかないそうだが、元来富山の薬は反魂丹という名であった。そもそもこの一ツで売りだしたものである。(略)
富山の名薬反魂丹が世上に知られたのは富山城二代目前田正甫という殿様のときで、延宝年間のことだという。ざっと二百八十年ほどの歴史である。この殿様が江戸城へ出仕中、よその殿様が急病になって殿中で死にそうになった。そのとき富山の殿様がかねて懐中していた富山の名薬反魂丹をとりだして服用させたところたちまちよくなったので、諸大名からもとめられて諸国へ売りだすようになったものだそうだ。
 しかし反魂丹の由来は、富山の家元松井家が宝暦九年に奉行所へ差上げた由緒書によると、富山本来のものではない。もとは備前岡山の医師浄閑が所持した薬だ。これを富山の者が製法の伝授をうけて帰国し、やがて殿様が愛用するようになって繁昌したに反し、本家本元岡山の方では亡びたという。
 また一説では、泉州堺万代村の浄閑が岡山に移りすんで医を業として反魂丹を造り、のち子孫が富山へ移住して代々反魂丹を製造して今日に至ったという。とにかく富山の薬の製法はもと岡山であることには変りがない。もとより魂かえす反魂丹は落語のように幽霊を現す反魂丹の意味ではない。イノチをかえす反魂丹。このまま失われるには惜しい名称である。…

同上
広貴堂HPより

ということで、富山の薬売りはこの反魂丹はんごんたんという丸薬からスタートしているが、今一番売れているのは、「ケロリン」。安吾に同行していた案内人も母が同窓会に行った時にはみんなバックにケロリン持っていない人はいなかったと聞くが、安吾は信じられない。しかも名前が気に入らないとか言って、試してに飲んでみようと、自分で薬局に行くものの、恥ずかしくて「ケロリンください」と言えず…。のそのそと家に帰って来て、ご夫人に伝えると、夫人はしっかり使っている。

「ケロリンならウチにありますよ。私は毎日のんでるのよ。ほかに鎮痛剤もたくさんあるけど、これも、これも、これも(と茶ダンスの中から色々な鎮痛剤の箱をとりだして)みんなダメ。ケロリンが何よりきくのよ。皆さん、そう仰有おっしゃるのよ」
 女房というものは亭主の知らないうちに何をしているか見当がつかないものだ。毎日ケロリンをのんでいるとは知らなかったね。薬屋へ行って「ケロリン下さい」と云うにはよほどの度胸がいるものと思っていたのだが、女というものは実は大そう度胸のよい動物に相違ない。すくなくとも私の友達でケロリンのんでる男というのは一人もいませんね。男の方が見栄坊なのかも知れない。しかし、女のケロリン的実質主義というものはどうも肉体的な厭味があって妖怪じみているようだ。私は一生ケロリンをのまない。ケロリンに反魂丹という名をつけると私はのむかも知れない。売薬と迷信は同じようなものだ。

同上

とまたも安吾節が炸裂しております。
富山の薬売りについての章にこんな一節。
「薬が売れるのは都会です。農村では売れませんね。なぜなら、農村では薬をのむことを知らないからです」と富山の売人はこぼす。
昭和30年代、前に書いた岡田喜秋氏との時にも感じた都会と田舎の差がこんなところにも表れています。

銀座 1966年頃「報じられなかった写真」より
こんなところを歩くことはほとんどなかったのか…

毒消し売りの村へ

さて、安吾は角田村に行くのだが、その前に、さすが越後の人らしくその地形の経緯について、岡田季喜よりも雄弁に語っています。

 この角田村というのは全部が砂でできている。それも砂丘だ。海から一里余にわたって何段かの高い砂丘のヒダが角田村である。
 しかし砂といえば、蒲原平野の大半がもともと砂でできたものなのだ。六百年前ほどの地図によると、いまの新潟市なぞは全然存在しておらぬのである。わずかに沼垂ヌッタリをのこして海は深く新津まで湾入している。それが六百年前だ。新津とあるから、新津も新出来の港で、もとの港はどこまで湾入していたか見当がつかない。この大きな湾が信濃川と阿賀之川の押しだす砂とまた海の押しもどす砂とで自然に埋めたてられたのが蒲原平野だ。角田村がその埋めたてられた西端に当っている。ここからは角田山で、古い越後のわけである。蒲原平野はこの六百年後に於ても時代時代で地図は大変動を示しており、それは信濃川、阿賀之川の二大河がぶつかりあっているためだ。時には河口が合流して長年月を経たこともあり、諸方に水溜りのような潟をのこして今日の蒲原平野をきずいたのである。

同上 落ちつき払った旦那の村

そう言われれば、新潟という地名も新しい潟。より内陸・川に沿うところであれば、堆積物の影響を受けて肥沃になるだろうが、角田は砂丘のまま。水田がわずかしか作れないから、女の人が行商に出て生活しなければならなかったと。さらに安吾が毒消し部落について聞いた知識は暗い話ばかり、村役場に行っても、同じような暗い毒消し売りの発端の話を聞くことになる。
この役場も以下の通り、
「この村役場が部落の入口にあって、旅人が最初に見る建物が村役場なのだ。これがまた世にも汚いボロ建物で、一押しでつぶれそうなボロ小屋だ」

ところがである。この村で一番のボロ小屋は役場とこれに続く小学校のみ。

部落の中へ踏みこむ。奥へ踏みこめば踏みこむほど、ものすごい。貧乏たらしいボロ小屋や貧しそうな農家なぞは見当らない。半数は農家という構えですらない。邸宅というべきだ。それらは門構えをもち、土蔵や倉をもち、石組みの塀をめぐらし、庄屋の屋敷かと思うのが無尽蔵に次から次へ現れ出でてくるのである。
 これらの部落の周辺へ行くと、なるほど畑はいよいよ物悲しくなる。急斜面の砂丘までみんなキレイに耕して、食うために猫の額まで必死に畑にしているような悲しい村の歴史が感じられないことはないが、それは堂々たる邸宅まがいの農家がなければの話である。堂々たる民家の点在したそれらの傾面の畑はいわば美の境地である。金持の旦那方が人工の庭なぞでは物足りなくなって、砂丘の斜面を畑にして、その盆景を楽しみ味っている雅風の境地の如きものを感じさせる。(グラビヤ参照)一部の風景がそうではなくて、部落全体がそうなのだ。行けども行けども、ますますそうだ。

同上 落ちつき払った旦那の村
現在の角田浜の一角を 「google street veiw」にて散策
土蔵が多いとは見えなかったが、一つ発見…
畑は見えども、田んぼは確かにない

落ち着き払った旦那の村

ということで、巷の噂と安吾の予想に、大いに反した光景。さらに歩けば、

役場から三十分も歩いた部落のどんづまりに寺がある。山門に陽明門のような彫刻をほどこした、しかも落ちつきのある立派な寺。寒村の貧乏百姓に建てられる寺ではなく、成金の建てる寺でもない。何代かの裕福な生活がうちつづいた旦那衆の集まりが建てることのできる落着きのある寺である。寺の裏はもう海で、そこが部落の行きづまりであった。

同上

この寺については、名前が書かれていないが、部落のどんづまり、裏はもう海というところから、願正寺というお寺のよう。そこの山門は、現在ストリートビューだと下記になります。奥の本堂も立派です。門前町があるわけでもなく、豊かな檀家が多くなければ、こんなお寺は作れないだろうと。

願正寺 山門? 残念ながら、ストリートビューで境内に入れず…

この寺の角に毒消しを作っている家を見つけ、その主人が快く迎えてくれ、対話するようになります。ここが部落で唯一の毒消し製造の工場ということだった。

「代々薬をおつくりですか」
「いえ。百二十年ぐらいのものです。いまの機械が明治二十二年に富山から買って用いはじめたと父が語っていましたが、その昔は手でまるめたものですね。以前は年に六トンつくっていましたが、いまは年に二トン」
 五十五六の主人。初対面の私たちと百年の旧知のように隔てのない打ちとけた態度で、薪をくべ、茶をついでくれながらポツリポツリと語る。落ちついたものだ。客に対するという気取りもなければ、東京からの旅人と話をしているという特別の意識もまったく感じとることができない。つまりそういうことに意を用いる必要のない一生をすごしてきた落着きがひしひしと感じられるのである。

同上

と物静かに語る工場の主人に、普通の片田舎の物腰ではないことを感じる安吾は、下記のようにこの角田浜のことを締めくくる。
「私もかなり日本の諸国を旅行した。しかしどれほど気候のよい南国に於ても、この北国の毒消し部落ほど裕福らしい農家がそろっているところは見たことがなかった。」
そして、この主人から毒消し売り発祥の地の角海浜のことを聞き出し、感動のまま、そちらに向かおうとするも制止される。このあとも、安吾が見た昭和30年の毒消し売りの状況が記されています。(つづく)

(寄り道し過ぎで、長くなりました…。読んでいただき、ありがとうございます!)


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