「縁を切れ」の軽さと苦しさ
「害のある人とは縁を切りましょう」という一文をみる機会が増えた。
ためしに「縁を」と打ち込んでみる。
Google検索には「縁を切る方法」に「縁を切るべき人の特徴」など、上手な縁の切り方をていねいに説明した記事ばかり。
「縁を結ぶ」に比べても、「縁を切る」が多くヒットする。
口に出すのは憚られるのに、なぜネット上では「縁を切れ」と簡単に言えてしまうのだろうか。
気軽に「縁を切れ」と放つ他者
そもそも「縁」とは何か。
血の繋がりとしての「縁」や巡り合わせの「縁」、関り合う「縁」など、「縁」は多様な意味をもつ。
共通するのは「関係を結ぶ」という意味を含んでいること。
人間関係は、家族を含めて必ずしも望んだ縁ばかりではないだろうが、良い縁も悪い縁もとりあえず「縁」という言葉で説明できる。
もちろん「縁を切るべき」リストにあるような「騙す人」や「悪意を持って近づいてくる人」は論外。
ただ、誰かも知らない人が放ったことば、作ったリストに沿って、人間関係を整理してしまっても良いのだろうか。
「縁を切ったから」苦しむこともある
「縁を切って晴れ晴れとした気持ちになれた」
悪縁を切った人は言う。
ただ、それは良い結果を得られた人の言葉であって、誰しもが縁を切ることで楽になれるとは思わない。
縁を切って、その結果しんどい思いもするだろう。
だからといって、「縁を切るな!」と言いたいのではない。
私が思う、縁を切るのを少し待って欲しい例はつぎのふたつ。
1「感情的になっているとき」
関係を切るのは一瞬でも、再び繋げるのは難しい。
切ってしまうとその人との関係だけでなく、取り巻く環境が変わったりもする。
それが原因でストレスが増えてしまうと、結局縁を切ってしまわなければよかった。と後悔するのではないだろうか。
衝動にかられての行動は、理性的に判断した行動に比べて、失敗した時の後悔も大きくなるのではないだろうか。
縁を切る!と感情的になってしまったとき、一呼吸おいて関係を薄く細く保ってみるのもひとつ。
2「人から縁切りを勧められた」
あなたのため、とは心地いい響き。
けれど、あなたのことを思って言ってくれた言葉でも、必ずしもあなたのためになるとは言えない。
その人の裏表を問うているのではなく、自分が築いた関係性は他者から正確に把握するのは難しいから。
アドバイスのひとつと考え、新しい視点として思考や行動に取り入れるのはおすすめ。
息苦しさから逃れるために
過干渉な友人、毒を振りまく親。
子どもが同じ年というだけのママ友・パパ友。
SNSで簡単に繋がれるいま、フレンドリストやフォローリストを外すことはクリックひとつなのに、とても難しい。
フォロワーがそのまま人間関係を表すように感じてしまう現代では、息苦しさから逃れたいと思うのも当然だ。
もし、そうした息苦しさから逃れたい時がきたら、一日だけアプリを消してみてはどうだろう。
その消すという行為で一時的に「縁を切る」を実行した気分になれるかもしれないし、再ダウンロードの手間はあるけれど気軽だ。
誰かがラインを送ってきても、誰かの日常が更新されても。
ゆっくり考える時間もできるので、自然とスペースができるはず。