『君たちはどう生きるか』の感想
一言でいうと、私はたいへん感動した。ただし、静かに。
これは老齢の宮崎駿氏が、生きることを肯定した映画であると直感した。
前作『風立ちぬ』のコピーは「生きねば」であった。そして堀辰雄の『風立ちぬ』が、例の「風立ちぬ、いざ生きめやも」ではじまっていることも知られている。
老齢の宮崎が、「さあ、生きよう」と、若い観客ではなくて、自分自身に言っているのである。
ここから言えることは、生きるということを選ぶことに、年齢は関係ないのであり、ひとはいくつになっても「生きること」を選び直さなければならないのである。
あるいはこう言ってもいい。イニシエーションは無数におこなわれなければならない。青年時代のあの時期に、一度通過すれば、それで終わりであると思ったら大きな間違いなのだ。
あの映画のなかで、サギが出てくる。最初は、敵対するものとして、後に同伴するものとして。
さらに、インコも出てくる。
しばしば、あのサギはいったい何者であるかということが問題になるようだ。
私はこう考える。
サギもインコも鳥である。鳥は空を飛ぶ。
宮崎アニメで、「飛ぶ」ことは、生きることの、特異なあり方であろう。ナウシカのメーベ、ラピュタに出てくる飛行石、また飛ぶ仲間たち、魔女の宅急便のほうき、紅の豚の飛行機、ハウルも、鳥に化けて飛ぶ、。宮崎氏がサン・テグジュペリを偏愛していることも知られていよう。ただし、こうして羅列した「飛ぶ」ものたちは、みな「鳥」ではない。鳥は、飛ぶようにできている。それが本性である。しかし、宮崎氏があげる飛ぶ者たちは、みなそれ自身で飛ぶことはできず、何かを──おもに飛行機──用いて飛ぶ。サン・テグジュペリが描いた空に散った仲間たちの生が、輝いていたように、ひとは空を飛ぶとき、生を輝かせることができるのだ。
それに対して、鳥は、そのような輝きなしに飛ぶ。人間が飛ぶことの意味とはまるで違う。したがって、鳥は、「生きること」が「飛ぶこと」であることを選択する必要のないものである。
サギは、だから、コンパニオン(同伴者)だった。
インコは、人間以外の何ものか、人間の生の秩序とは別の秩序を生きるものである。
さらにもうひとつ。大叔父というのが出てくる。
あれはなにか。ちなみに、私にはあのキャラクターの原型は、ニーチェにしか見えない。
無造作に積み上げられた書物の山、あの知のなかに埋もれ、人間ながらにして世界の秩序を知った者が、あの大叔父だろうと思った。ファウストである。空中に浮いているムール貝みたいなヤツが、その結論であろう。眞人は、この大叔父のように知の人になることを求められた(ちなみに、私がここで思い出していたのは福田章二の『喪失』であった!──主人公が、親戚(だかだれか)を尋ねたとき、その家にあった膨大な量の書物。主人公は、生きるためにはこれらの書物を読まねばならないと思い、途方にくれる・・・だったか)。
でも、それだけが生き方ではないだろう。
こんなふうに観ました。
もう一度言うと、生きるというのは、歳をとっても、なんどもその生きることを選択し続けなければならないのである。『君たちはどう生きるか』は、生きている人に、生きることを選ぶことの素晴らしさを歌った、作品である、そういうふうに観ました。
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