『パーフェクト・デイズ』を観た感想
ヴェンダースの『パーフェクト・デイズ』を観た感想を。
私がいたく好きな、村上春樹の初期の短編「午後の最後の芝生」を思い出してしまった。この短編小説は、大学生がバイトで芝刈りをする一日の話である。そして芝を刈るなかで人に出会う。そういう話である。この主人公は芝を丁寧に刈る。まるでルーティーンのように。それは、『パーフェクト・デイズ』で主人公の平山の生活に張りめぐらされているルーティーン、そしてトイレの掃除の仕方、それらと共通のものだった。
出発点となる問いはこうだ。 ルーティーンとはなにか?
ルーティーンとは、私たちが生を象カタドる、象り方のことだ。以前、介護関係の学校で教えていたとき、日常の作法を教える授業を担当している先生がいた。その先生が「寝間着」の意味について教えてくれた。寝間着は夜寝るときに着るものだ。昼間に来ていた服を脱ぎ、寝間着に着替え寝る。そうして、今日と明日が区切れてゆく。映画の中で、平山が起きて布団をたたみ、歯を磨き、植物に水を与え、着替えて、鍵や小銭を持ち、自動販売機で缶コーヒーを買い、車で出かけ、カセットテープで音楽を聴く。こうして一日が象られてゆく、元々無であった世界が有になってゆく。悠久の時間の中で、人間の一日が「木漏れ日」がゆれる風景のように出来上がってゆく。この映画は、まず、こういうPerfect Daysを描いたものだ。
無論、そのルーティーンは、毎日完全に同じではない。それは、毎年行われるお祭りが、同じものでありながら少しずつ違っているのと同じだ。同僚が休む、金を貸さねばならない。若い女の子にキスされる。姪が来る。いつもの食堂がいっぱいだったりする。スナックのママが見知らぬ男と抱き合っている。平山のルーティーンは、こうした事情によって果たせないこともある。ただしそれは、そのルーティーンが機械的なものではない以上、そういうものである。
ひとつだけ疑問がある──影は重ねると濃くなるのだろうか。私にはならないように思える。
もちろん、平山も、このルーティーンのある人生を、無自覚に受けとめているわけではない。ランナーズハイの心地よさが、体力を振り絞って持続的に走るゆえの快であるように、実家がそうであろう裕福な暮らしから離れて公衆便所を掃除するというルーティーンが、おのずとそうなるような行為の連なりでないことも明らかであろう。ラストシーンの表情は、そうした万象を映し出すものであったのである。悲しみだけでもなく、喜びだけでもなく、またツラさだけでもなく、楽しさだけでもないものである。
その意味でやはりperfectなものではないだろうか。
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