歌舞伎俳優が本屋さんになったわけ②
みなさん、こんにちは。銀座 蔦屋書店で日本文化を担当している佐藤昇一です。普段はお店でお客様をご案内したり、本を選んだり、フェアやイベントを行ったりしています。最近は、美術展や出版なども企画しています。
前回、noteへはじめて投稿をしてみました。まずは簡単に自己紹介をと思いましたが、長くなってしまったので分けることにしました。自己紹介の第2回です。
前回の簡単なまとめ
普通の大学生だった私は、歌舞伎のことを全く知らないのに、なぜか国立劇場の歌舞伎俳優養成コースを受験して合格してしまいます。歌舞伎に詳しいひとばかりの中で、どうにか2年の研修を修了。中村又五郎さんの舞台に感銘を受け弟子入りし、中村蝶之介という芸名をいただき初舞台。以来約18年の修行の毎日を送ります。充実した役者生活でしたが、家族の将来を考えて廃業。ここに大学中退、役者しかしたことがない39歳の中年男性の転職活動がはじまります。
受け入れてくれる仕事を探して
こんな自分を雇ってくれる会社があるのかな‥‥。いざ履歴書を書いてみると、歌舞伎俳優というネタにしか使えない経歴以外めぼしい職歴も資格もない、さらに若くもない。わかっていたことですが、ショックでした。
しかも、歌舞伎俳優は自営業ですので、雇用保険に入っていません。失業保険が出ないので、無収入となります。厳しすぎる現実です。
それでもあきらめずに、履歴書を出し続けました。無理くり見出した自分の強みは、現場に強いこととひとあたりのよさ。そこをアピールするうちに、接客が必要な販売の仕事でいくつか内定をもらうことができました。
職を転々とする
やっと定職につきましたが、本屋さんになるのはまだ先のお話。ここから転職をくりかえすことになります。
まずはじめは、日本酒の飲食ベンチャーの物販事業。簡単に言えば、百貨店や商業施設での催事です。神奈川や埼玉で、北陸や新潟の特産品を販売していました。あつかっている食材と日本酒がとてもおいしくて、お客様に自信をもっておすすめできて、楽しい仕事でした。現場に超仕事のできる派遣さんがいて、物販の基本を教えてくれました。
次は日本の古美術をあつかうギャラリーの営業職。歌舞伎に似た、厳しい修業の世界でした。美術品の真贋や価値を判定する現場に同席できたのは、夢のような贅沢な体験でした。美術品の飾り方や扱い方など、教えていただいたことは今でも役立っています。また現在も、一緒に美術展を企画したり、作品を探していただいたりと、お世話になりっぱなしで申し訳ないと思いつつ、ご縁がつながっているのがうれしいです。
そして最後が、八重洲にオフィスを構える、従業員が8,000名を超える大企業の社長室での新規事業。スーツを着る仕事ははじめてだったので、ちょっと感動したのを覚えています。そこで、ミスコンテストと美容皮膚科というふたつの事業を担当しました。一緒にプロジェクトを担当していた同僚がとってもできたひとで、名刺の渡し方からExcel、プレゼンまで、ビジネスに必要なことをすべて教えてくれました。彼には足を向けて寝られないです。
ある日突然、異動と管理職に抜擢されることを知らされ、上司に「スーツの替えをもっていないくらいの素人ですから」と断りました。数日後、社長がポケットマネーでスーツとネクタイ、シャツ3セットも買ってくれて、辞退できなくなったのはいい思い出です。法務、労務や人事、保健所対応など、はじめて尽くしの体験でした。
みんなに励まされて‥‥
今思い返してみても、どれも面白い仕事でした。でも、結局転職することになってしまう。そのたびに、歌舞伎の世界にいた方がよかったのでは、と落ち込みました。普通の仕事はできない人間なのではと、自分が信じられなくなっていきました。家族や友人の励ましがなかったら、とっくに折れていたでしょう。
先の見えない暗いトンネルに閉じ込められたような、息苦しい感じ。でも同時に、周りのひとの温かさが光のようにさしこんで、あたたかい気持ちにもなる。この時期のことを思うと、複雑な感情がよみがえってきて、泣きそうになります。
つい自分の心境ばかりお話してしまいましたが、家族、特に奥さんにはいっぱい心配をかけてしまいました。時には喧嘩もしましたが、本当に辛いときには「いつ辞めてもいいんだよ」と言ってくれて、その言葉に何度も救われました。
この文章をまとめていると、横から奥さんが「美人の奥さんが、夫を献身的に支えた話はいつ出てくるの?」と言ってきます。そんな明るいところにも助けられました。ありがとう。
次回、「歌舞伎俳優が本屋さんになったわけ」は完結です。ようやく本屋さんになります!