イタリア語のコダックから読み取る『ポケポケ』のデジタルカードゲームの再解釈について
『ポケポケ』が自分の端末で始められないことを発狂していたのが昨日の日記だが、その後アプリの言語設定をイタリアにすると起動することがわかったので、すかさずイタリア語ではじめることにした。
後から日本語に設定こそできるが、チュートリアルはイタリア語でやることになってイマイチゲームがよくわからないし、イタリア語で遊んでいる間に引いたカードはイタリア語版で排出されて保存されるので、僕のコレクションにはイタリア語で効果が書かれたコダックがいる。
これ自体は思わぬトラブルではあるものの、なんだかこれはこれで良い気がしてきた。一期一会感があるというか。自分だけが出会ったイタリアンコダックという感じがする。
自分のお気に入りのカードを日本語以外で揃えたりするのって、すごく紙のカードゲーマー仕草だ。作り手のことを考えれば、デジタルカードゲームの言語設定なんて、設定で言語を変えたら一括ですべてのカードが変わるようにするに決まっている。わざわざカード自体に「引いた時の言語設定」を読ませて多言語版を実装しているゲームなんて他にない。
デッキにイタリア語のカードと日本語のカードが混ざるなんてデジタルのカードゲームではあまりなかった。これ自体は一見無駄な仕様にも思えるのだけれども、実際に紙で遊ぶ時に色んな言語のカードが混ざることはよくあることだったりする。カードショップでは〇〇版の方が3割くらい安いから妥協する、なんてのはよくあることだし、〇〇語版しか在庫がないから一旦これでいいか、なんてこともよくあることだ。
最近のゲームは日本語版じゃないと大会出れなかったりするから、そのあたりの事情も変わってきているのかもしれないが、少なくとも僕のMTGのキューブドラフトには、謎の言語で書かれた『稲妻』が未だに入っている。そのことで会話が起きたりするし、そこにストーリーが生まれたりする。ゲームとは案外そういうもので、そんなどうでもいいことが、実は大事だったりする。
そんな一見どうでもいいことをちゃんとこだわっているこのゲームに、僕は好感を抱いている。多くの人はこのゲームのことを「新しいデジタルカードゲームが出た」「ポケモンカードがついにデジタル化」したと見做しているが、僕の認識は少し違う。このゲームは明らかに従来のデジタルカードゲームと一線を画した作り方をしている。それはつまり、このゲームの主体が戦うことでなくて、集めることになっていることだ。
多くのデジタルカードゲームを始めた時に何をさせられるかと言えば、まず戦い方を学ばされる。ゲームのルールを理解するためのチュートリアルがあって、初期デッキを渡されて、カードパックを引けばデッキを強化していくことができますよ、という導線だ。
それに対して、『ポケポケ』はまずカードパックを剥く。そしてそのカードをバインダーに入れる。むしろそこがチュートリアルだ。わかりやすいことに、カードをカードバインダーに入れるのにスワイプ操作すら必要である。今までカードパックを向いて、そのカードを保存するためにクリック/タップ以外の操作を要求したゲームはほとんどなかったように思う。対戦が解放されるのはプレイヤーのレベルが上がってからだ。あくまでカードパックを開けて一喜一憂し、それらをカードバインダーに入れてコレクションしていく。それこそがこのゲームの一番重きを置かれた遊びなのだ。
これは逆転だが、回帰でもある。つまり、デッキを組むためにカードを集めるというのが従来のデジタルカードゲームの発想だったのに対し、『ポケポケ』はカードを集めて楽しみ、その延長に対戦があるゲームだ。まだ実装こそされていないが、カードを交換する機能が示唆されていることからも、収拾がメインになっていることはその点明らかだろう。このゲームにランクマッチ的なものはないし、恐らくはしばらく実装もしないんじゃないだろうかと僕は思っている。
『ポケポケ』は紙のカードゲームをデジタル化することに対する再解釈だ。対戦相手を探すのが大変だった紙のカードゲームの問題解決手段として生まれたデジタルカードゲームを、いやいやカードゲームの楽しさとは、僕らの原体験とは、キラキラしたカードを集めることが楽しかったことにこそあって、戦うことは二の次でしかないのだとこのゲームは言う。だって僕たちはルールすらわからないゲームを、今風の言い方をしてしまえば「紙束」ですら、大層楽しく遊んでいたではないか、と、そう問いかけているように見えた。もちろんこれは僕の解釈であって、誰かに押し付けるものではないが、僕はこのことにすごく感銘を受けたし、まったくその通りだと思った。
だから、最強カードや最強デッキについて言及している人たちに僕は少し違和感を覚えている。踏み込んで言えば、そうした資本主義的な、数字至上主義的な、最強デッキランキング的な文脈で消費されつくしてしまったデジタルカードゲームを取り戻そうとする取り組みこそが、この『ポケポケ』な気がしているのだ。
ゲームで最強を目指すのは一部の人の楽しみでしかない。もちろん最強を目指すことそれ自体は否定しないし、僕自身も最強を目指すことは好きだし、これからもそうすることはあるだろうけれど、あくまでそれは一部の人が勝手にやればいいのであって、例えばYoutubeにそうしろと押し付けられるものでもないし、押し付けるものでもないのだ。
このゲームの行く先にこそ新しいデジタルカードゲームの世界があることを願って。
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