第52編 瞳孔
時計の針が進む。
もうすぐ私はとある組織とそこに所属するあの女によって拘束される。
それを免れることはできないだろう。その前に、この記録をもってとある驚くべき事実を世の中に公表しなくてはならない。しかし、その頃には、当然私の存在は・・・。
***
都市部に住んでいる私は、よく電車を利用する。車を使うこともあるのだが、電車は突発的な事故で止まることはまぁあっても、渋滞することがないので、その点、車よりは移動にかかる時間を先読みして行動することができるのでとても便利だ。
そして、今日もある移動のために電車に乗っている。
私は電車で座席に腰掛けるときは、ドアに近い端の席と決めている。それは、隣人が私の両端にいてはその両方に気をかけなければならないことが苦痛であり、また、もし事故が起きた際、ドアに近ければ逃げやすい、つまりそれだけ私の生存率が高まる可能性があることを見越してなのだ。電車に乗り込み、都合よく空いていた端の席に腰掛ける。次の駅でドアが開き、人が幾人か電車から降り、それ以上かそれ以下の人がまた電車に乗ってくる。その乗客の幾人かの中に、彼はいた。
彼は、乗り込んですぐにこなれた体の動きで、ドアのすぐ横の空間に体を滑りこませた。よく握り手が付いているドアのすぐ横の、あの数十センチの隙間だ。ここは、混んでいる時も人の干渉を受けにくいし、目的駅の降り口のドアがその身を寄せたドアと同じであれば、人を掻き分けて降りることもなくたやすく降りることが可能な便利な隙間だ。その便利さに、私もよく利用させてもらっている。
電車はドアを閉めて、のそりと鈍く動き出す。ドアにはめられている大きな窓ガラスの向こう側に映る景色が電車の速度に合わせて、だんだんと形を崩し、線状になっていく。そうすると今度、ドアの窓ガラスは内向きに光を反射し、やがて電車内の人々を映すようになる。
ドアの窓ガラスには、ドアに向けて体を預け立っている彼の姿が写し出される。彼の目から入ったそれを脳が素早く認識し、やがて窓ガラスに写った自分の姿を彼自身の瞳に映し、右手で前髪を調整しはじめた。顎をひき、見上げるような目つきで前髪を必死に調整している。すぐに終わると思われたその行動は、次の駅、ドアが開くまでの約一分近く続けられた。
その行為において彼の髪は、果たして素晴らしい変化を見せたのだろうか。オシャレに関しては門外漢な私には、その行動の以前と以後の変化を見つけ出すことは残念ながら不可能だった。
このような行動を、彼、特に青年と呼ばれる男性が行なっていることを街中でよく目にすることができる。
私は、常々不思議に思っていた。彼らはなぜ、そうまでして自分の髪を反射体に映し出し、左手、あるいは右手でもって髪を調整しなくてはならないのか。信号待ちをしている若者は、電車の彼と同じく信号で止まっている車のミラーを見つけるやいなや自分の顔をミラーに映し髪を調整する。道を歩く青年は、道に連なり建つ店のショウウィンドウに自分の姿を見つけ、通り抜け様に髪を調整する。
まだまだ事例はいくらでもあるのだが、彼らのこの無意味に思える行動には、実は何かしらの意味があり、それを深く観察することで、あるいは答えを見出せるのではないかと私は考えた。
秋の空は、月を早く連れてくる。私はその日一日を使い、延べ11名の彼らを付け回し、その行動を調査した。しかし、彼らの髪の調整後の変化はおろか、その行動の意味を、答えを、見出すには至らなかった。
あの行動には意味や答えは存在しないのか、脱力し力を失った私の足は、自然と自宅への道へと、つま先を向けていた。
帰りの電車。私は自由のきかないその体に促されるように、いつもの端の席へと重力に任せ腰を落とす。成果を出せなかった自分への惨めさと、この先の霞みがかった人生への不透明さに不安を覚え、体は眠りへと誘われた。
永い意識の不在、一体どれくらい眠っていたのだろうか。しかし、頭の上の時計の針は、一分とも進んでいなかった。
はっきりとしない意識の中、顔を上げた目の前の席には、化粧っ気のない女性が座っていた。今日の仕事を終えた帰宅の途中なのだろうかと思ったのだが、彼女はその体に似合わない大きなショルダーバッグの口を開け、小さなポーチを取り出した。そして周りを気にすることなく疲れを滲ませ、生気を失った瞳をコンパクトに映し見みながら、化粧を始めたのだ。ファンデーションをはたき、シャドゥをひき、紅を塗る。一瞬間、彼女は白い蝶へとその姿を変えていた。それは賛美に値する変わりぶりだった。自分の顔をミラーに映し、これだけの変幻を魅せる。男と女はこれほどに違うものだったのか。今日出会った11人の彼らを思い出し、私は何か理不尽に思った。
それは、突然のことだった。
思考の波が私の頭を激しく揺する。情景は互いに結びつき、私の頭にある像とある考えが全体を浮かび上がらせた。そうだ、そういうことだったのだ。彼らのとる行動ばかりに目がいっていて、その行動の行き着く先を大きな視点で捉えることが、私には出来ていなかったのだ。そう、彼らのあの行動には、女性が不可欠だったのだ。
反射体に自分の顔を映しその髪を調整する男性と、自分の顔をミラーに映し蝶へと変幻する女性。
彼らは、そのお互いの反射体やミラーを通して通信を行っていたのだ。
男性は髪をいじっているのではなく、あれは電波を正確に受けるためのアンテナの調整だったのだ。そして女性は、化粧の一連の行動によって、まるでモールス信号のごとく、相手の男性へと極秘情報を送信し続けていたのだ。これで全ての説明がつく。そしてそんな技術力を持っている彼らは、只者ではない。こんな考えは、恐ろしい考えだと自分でも思うのだが、しかし、こう結論づけなければならないだろう。そう、彼らは世界に暗躍する地下組織のエージェントだと。
そして、その秘密を知ってしまった私は・・・。
目の前の席に座っていたあの女。あの女が近寄ってくる。
「ハルシさん、もうお部屋に戻る時間ですよ。お部屋に戻ったら、夜のお薬を飲みましょうね。先日に受けた検査、すごくいい結果だったみたいじゃないですか。先生もいい傾向だとおっしゃってましたよ。あらら?一生懸命に何を書いているんですか?」
昔映画で見た女優の顔に純白の衣装を身にまとった女が、何やら彼に話しかけている。
鉄柵に囲まれた一見穏やかな雰囲気の部屋の中、ここには意味の通じない言葉を発し続ける頭のおかしな奴らしかいない。そして、ここには、あの秘密を知るものなど、一人たりともいるはずもないのだ。その部屋のガラス窓に写る自分の姿を瞳に映し、彼は右手で前髪を調整する。頭の上の時計の針が動くと同時に、遠くの駅では電車の発車を告げる音が響いた。
私の瞳の奥には、電車の端の席に腰を落とし揺れている、彼の姿が映っていた。