戦力外通告とトライアウトに寄せて【上田利治の挿話】

日本プロ野球(以下プロ野球)は支配下選手の枠を70人と定めている。つまりドラフトやFAで選手を獲得するもしくはその方針なら相当する人数分だけ誰かを戦力外、つまりクビにしなければならない。
近年テレビ番組の影響で「戦力外通告」やそれを通告された選手がいわば最後の見せ場として臨む「トライアウト」はプロ野球に格別の興味を持たないひとにも知られる言葉になった。

しかし戦力外通告された選手との交渉解禁はトライアウト後と定められているとはいえ、「行先」のある人材は事前に水面下で決まるケースが殆ど。
従って近年のトライアウトはそうした「内定」のある一部選手が引き取り先からの求めに応じて受ける「メディカルチェック」の役割を果たす以外は「脈なし」選手のための「引退試合」と化しており、形式的お祭り的な催しと言える。

往年の名将が向き合った戦力外通告

現在のプロ野球各球団では専門スタッフがシーズン中に選手の動きを細かくチェックしたデータに基づいてある程度「通告候補者」を決め、あとは現場の意向を確認して球団幹部が最終決定、選手を球団事務所に呼び出して通告するやり方が普通。一方、かつては本質こそ変わらないがもう少し人間くさいやり取りが存在した。

プロ野球の監督の哀歓にスポットを当てた浜田昭八氏の名著『監督たちの戦い』(日経ビジネス人文庫;2001年)の上田利治(〔1937-2017〕阪急・オリックスとファイターズの監督で通算1,323勝)の項には戦力外通告にまつわる「秋は寂し」という一節がある。

私の野球のバイブル。

Posted by Tadashi Nakagawa on Thursday, July 13, 2017

監督をしていて「その時期がくると、つくづくイヤな商売だと思う」と上田は言った。選手に戦力外通告をする秋である。任意引退、自由契約、戦力外と、呼び方はさまざまだ。つまりはチームが必要としなくなったから、契約を解除するということである。
功成り名を遂げ、第二の人生の生活設計も万全で、自ら身を引くというケースは少ない。表向きは「任意引退」であっても、実質的には解雇であり、世間体を繕っただけということもある。どの球団と契約するのも自由という「自由契約」も、テストで拾われるのが関の山。ユニホームを脱ぐと、ほとんどは不自由な生活を送る。
シーズンも終盤に入ると、監督はボーダーラインに近い選手を、残すか手放すかの断を下さなければならない。直接手は下さないまでも、球団に意見具申をする。日本ハムでは球団の編成部が、この難しい仕事を取り仕切る。しかし阪急時代の上田は、戦力検討から選手への通告まで、すべてにかかわってきた。
「短い間でも一緒にやってきた選手に通告するのは、本当につらかった。毎年、5人から8人に辞めてもらわなければならない。しかし、このつらい仕事をやらないと、チームは強くならない」と、上田は割り切るように努めた。
通告した選手を自宅へ呼んで、別れの宴を開くのが慣例だった。わずか2年間だけプレーしただけで退団する、ある選手を呼んだ日のことを、上田はいまだに忘れられない。「1番いい酒を飲ませて下さい」と言い、泣きながら実家へ電話をかけた。教育者の母親が電話口に出て「残りの人生は長い。胸を張って帰り、やり直しなさい」と、失意の息子を励ました。
こんなきれいな例ばかりではあるまい。程度の差はあっても、選手はすべてうぬぼれ屋だ。使ってくれなかった、使い方が悪かったと、監督を恨んで去る者も多い。それにひるんでいたら、いいチームは作れないのだから、確かに因果な商売ではある。
入団するときに契約金が支払われているから、選手は「その日」があることを覚悟しておかねばなるまい。甘言で誘ったからといって、球団にも、監督にも法的な責任はない。だが、そこは狭い日本の、さらに狭い野球界である。プロの契約の、シビアな論理だけで押し通せないこともある。
退団する選手に対して、「面倒見」がいいかどうかが、以後のスカウト活動にも響く。それはスカウトの仕事と、監督が知らぬ顔を決め込むようだと、てきめんに痛いお返しがある。その点、上田の面倒見のよさには定評があり、退団後何年もたつ選手や、その家族から頼られることもある。
寂しい秋だが、人間同士の新しい結びつきが芽生えるときでもある。選手の家の近くに住まないほど「戦力」とは距離をおいた上田だが、「戦力外」には改めて手を差し伸べる。そこで築いた人脈は情報をもたらし、やがて豊かな実りに繋がるのだった。

浜田昭八『監督たちの戦い 決定版・上』(日経ビジネス人文庫)

上田利治は選手時代の実績はほぼない。アマチュア時代、後のミスタータイガース村山実(1936-1998)とバッテリーを組んだキャッチャーで即戦力としてカープ入りしたが、同期の田中尊とのポジション争いに敗れ、実働3年で見限られた。
しかし大学時代から学業優秀とあって勉強家だったこと、生活態度も真面目で若い選手に慕われていた点を評価されてコーチとして生き残れた。また選手時代のチームメイト、フィーバー平山との関係を大事に保ち、後年の阪急監督時代にボビー・マルカーノの獲得に生かしている。こうした経験が「面倒見」のよさ、ひとを大事にする姿勢に繋がった。

現在の球界ではホークスがソフトバンク本社と協力して選手のセカンドキャリアサポート体制を作っている。ホークスにいい素材が入ってくる背景の一つはこうしたシステムの存在だろう。三軍を含めた厳しい競争の一方、夢破れたひとを個人の努力任せではなく組織としてサポートする。
いわば大リーグ風のハングリーさと日本の「面倒見」をうまく融合させているのがホークスの強みだし、アマチュアの指導者や親御さんもここなら大切な宝を送り出そうと考えるから。
人口減のなか優秀な人材を確保するには組織の取り組みが必須であり、他球団もそれぞれのやり方を探る時期に来ている。

【参考文献】

浜田昭八『監督たちの戦い 決定版』(日経ビジネス人文庫;2001年)

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