プロ野球賢者の書(特別編)【浜田昭八の見つめた球界の賢者】①三原脩

本稿の狙い(というほどの中身ではないが)はこちら。

戦いの哀歓を簡潔に綴った「矜持ある野球記者」

日本経済新聞の野球担当記者・編集委員として活躍、定年退職後も同新聞にコラム「洗球眼」を執筆してきた浜田昭八氏(1933-)が、本年春に健康上の理由でペンを擱いた。

上記リンク記事で最初に取り上げた「賢者の書」こそ浜田氏の『監督たちの戦い 決定版』(日経ビジネス人文庫;2001年)。
三原脩、鶴岡一人、川上哲治などプロ野球の黎明期と発展過程を担った大監督から執筆当時現役監督だった王貞治、長嶋茂雄、野村克也、森祗晶、仰木彬、星野仙一に至る上下巻合わせて18人の勝負の内側に渦巻く人間模様をあぶり出した名著。
定型的礼賛や低次元の暴露趣味のいずれにも陥らず、簡潔な筆致で読み手の想像を喚起する書きぶりは、文字通りプロの技。
当方の野球のバイブルである。

そこで3回に分けて『監督たちの戦い』より三原脩、大沢啓二、近藤貞雄の章を取り上げ、グラウンドの内外で戦った「監督たち」の姿と浜田氏の筆致を見つめる。

汲めども尽きぬ知的野球のパイオニア:三原脩(1911~1984)

1リーグ時代の巨人に始まり、西鉄(現西武ライオンズ)-大洋(同横浜ベイスターズ)-近鉄-ヤクルトで監督をつとめ、通算1687勝(1453敗108分)は歴代2位。仰木彬など後の監督経験者に大きな影響を与えた三原脩。
2023WBC日本代表監督の栗山英樹氏が敬愛する野球人として名を挙げ、没後40年を前に改めて注目された。

手腕をさらに光らせた言語センス

三原の編み出した戦法を見ると先進性に驚く。
『監督たちの戦い』で浜田氏は三原の認識から考察する。

三原は孫子の兵法にある「兵は詭(いつわり)なり」を、よく口にした。そして「スポーツは人間の闘争本能を遊戯化したもの」と言い、おとりは使うし、謀略も辞さぬという自説を展開した。フェアの精神は、と迫ると、”フェイント”論で反撃した。
パンチを繰り出すのに、「右ストレート」だと予告するか。バレーボールやバスケットボールでのフェイントは、それ自体が美であり、技術として認められている。野球にも”擬走”や”バスター”があるではないか。「詭」を汚い「だまし」と解釈するか、戦略と見るかは、それぞれの人間性の問題だと説いた。
話題になった三原流「詭」には「偵察メンバー」「ワンポイント・リリーフ「二刀流」「緊急避難」「露払い先発」などがある。(中略)水原茂が開発、三原が普遍化した「ワンポイント・リリーフ」は、野球以外の場で使われるほどポピュラーになった。
近年また有名になったものに(中略)投打の「二刀流」がある。1968年に近鉄へ移った三原が、新人永淵洋三を投手と打者の両方で使った。選手不足の戦後すぐならともかく、この時期では珍しかった。貴重な左腕と期待された永淵だが、打撃を生かして外野手としても出場した。
永淵は12登板、0勝1敗の成績を残しただけで、投手を1年でやめた。2年目の69年に張本勲と首位打者のタイトルを分けたほどだから、切れ味鋭い大太刀と錆びたナイフほどの「二刀流」だ。三原はファンの耳目を集めると同時に、このセンスあふれる新人を、ナインの危機感をあおるのに利用したのだ。
「緊急避難」はピンチで苦手打者を迎えたエースを、一時的に一塁や外野に移し、ワンポイント救援でしのいでから、再びマウンドへ呼び戻すもの。西鉄での稲尾和久-大毎・葛城隆雄、大洋での秋山登-中日・中利夫の対戦で、よくこの手を使った。稲尾は3シーズンで4度、秋山は6シーズン12度の避難だったが、やった回数以上に強烈な印象を残した。
「露払い先発」は60年の日本シリーズ、大洋-大毎第1戦での大洋の左腕鈴木隆の先発が有名。打者3人で退き、秋山がロング救援して、大毎のゲームプランを混乱させた。スタミナ不足の投手に送るはずの救援を、前に出すという逆転の発想のリレーもあった。ヤクルト時代の73年、左腕小林国男-松岡弘のセットで、何度かこれを成功させた。
「正攻法でいけるときは、三原さんも変わったことはしない。不足を補うとともに、監督同士の戦いで、なにをするかわからないと相手に意識させる狙いもあったと思う」と弟子の仰木。ただの”受け狙い”の奇策と一緒にしないでくれということか。

『監督たちの戦い 決定版・上』pp.359-pp.361

「ワンポイント・リリーフ」は大リーグでは禁じられたが、日本ではまだ健在。
「緊急避難」ならタイガース監督時代の野村克也が、葛西稔-巨人・松井秀喜の対戦の際に左腕・遠山奬志を使った継投が有名だし、高校野球では今なおたまに見かける。

さすがの三原(+著者の浜田氏)でも21世紀に大谷翔平選手のような「《本格派》二刀流」が登場するとは予想しなかったはず。
三原の西鉄監督時代に近鉄の関根潤三(1926~2020)が、投打両方で活躍(50勝・1,000本安打・100本塁打達成)していたことが永淵の「二刀流」売り出しのヒントかも。

「露払い先発」は近年の大リーグで脚光を浴びた「オープナー」の元祖と言える。
ローテーションの谷間の先発投手に苦慮した場合や立ち上がりの不安な先発投手を無理なくゲームに入らせるために採る策だが、半世紀以上前の日本でこの発想は破格。
泉下の三原は我が意を得たりと頷いているだろう。

三原の発想、語録のうちで秀逸なのが「流線型打線」。
2番に長打の見込める打者を置けば、1番からクリーンアップへのつながりが良くなるという主張で三原は監督就任前に就いていた記者時代に提起した。

高倉、豊田、中西、大下、関口、河野、仰木、和田、投手(稲尾)。
1950年代後半の強力西鉄打線を、スラスラとそらんじるファンが今も多い。それほど、このオーダーは印象的で、相手チームにも恐れられた。個性派ぞろいのメンバーの中でも異彩を放ったのが、2番の豊田泰光だった。
小柄でバントがうまく、小回りがきく優等生というのが、それまでの2番打者のイメージだった、豊田はそんな枠にははまらない、スケールの大きさを備えていた。足は速く、バントもできた。従来型の2番に育てる気なら、できたかも知れない。だが三原はあえて、より攻撃的な2番に仕立てた。
それは、かねて三原が提唱していた「流線型打線」の実現でもあった。1947年に巨人監督に就任するまでの三原は、読売新聞で野球記者をしていた。1番打者と3番の間に、器用ではあるが非力な打者を据えて、くぼみを作るのは得策ではない。4番打者を頂点にして、流線型電車の車体のような打線を組むのが、パワーもスピードも出ると、流体力学の理論まで引用して論じた。
この冒険的な理論は、関係者の間で注目された。だが、一野球記者の提案を現実に受け入れる監督はなく、三原が巨人で千葉茂を2番に据えるまで忘れられていた。脚光を浴びるようになったのは、西鉄で豊田という格好の打者を得てからだった。
「流線型打線」というネーミングも、当時としてはざん新で、マスコミが競って取り上げる要因になっていた。元記者の三原は、その辺りをよく心得ていた。

前掲書pp.365-pp.367

一時期エンゼルスのマイク・トラウトの活躍で「2番強打者論」が注目されたが、三原はなんと60年以上前の日本でスマートな言辞と絡めて実践していた。

独創的試みを一層際立たせる「三原造語術」は、後年の野村克也に通じるものだが、視点の斬新さや奥行きでは三原が上と感じる。

低迷続きだったチームを浮上させる手腕、戦法の巧みさ、ファンを引き付けた語録が称えられた一方、三原には西鉄の稲尾和久、大洋の秋山登に代表されるエースの集中起用への批判がつきまとう。
現在の基準どころか、当時の野球観でも酷使と言える「記録」だからだ。
とはいえ、自軍投手陣の層が薄く、加えて相手の下位打線も弱いケースが多かった時代、三原の言葉を借りれば「旬」の投手をフル稼働させチームの勝利と選手の昇給に結び付ける戦い方が合理的だった面はある。
三原の監督晩年から芽生えた投手分業制が完全に定着し、リリーフ投手が大型契約を結ぶ現代に三原がいたら「旬」をどう語るか、気になる。

「魔術」という讃辞に対して三原は「手品で勝てるなら苦労はいらぬ」「配牌が良くないとどうにもならない。監督の役割など小さなもの」「戦いは机上で考えた、理想的な形でやれるものではない」とかわした。「魔術」を期待して補強を疎かにされてはたまらんというフロントに対する牽制の意図も漂う。
記者に相対する際まで数字の書き込まれたノートを抱え、理論派と見られたが、戦時中の南方戦線で死線を潜り抜けた経験ゆえか、勝因などに「運」「ツキ」をよく口にしたらしい。

ただ、戦力の薄いチームの場合はときに文字通り手品じみた采配で勝ちを拾った。
スワローズを率いた監督晩年の1971年にはこんなことが。

「じいさま、頭がおかしくなったんじゃないかと思った」と、元ヤクルトの大塚徹は、その奇妙な指示を回想した。サヨナラ勝ちのチャンスで代打に起用されたが、監督三原に耳打ちされたのは、なんと「打つな」だった。れっきとしたプロの打者である。心血を注いで練習してきた男に「打つな」とは・・・・・・。71年5月26日、神宮球場でのヤクルト-巨人戦。4-4の9回裏の無死満塁だった。巨人の投手は左腕の高橋一三に代わり、左腕キラーの大塚は意気込んでいた。
大塚の記憶によると、三原の言葉は「打つ格好をして、手を出すな。三振しても、オレが責任を持つ」だった。存在をアピールする絶好機なのに、バットを振ることが許されない。「腹が立つというより、情けなかった」。大塚より頼りになる次打者の武上四郎に勝負を託す、という三原の意図がわかっただけに、バットを振って責任がとれない自分が情けなかったのだ。
だが大塚は、三原の意図通りに”演技賞”ものの、打つ格好を見せた。闘志満々、高め球を強くたたいて犠牲フライを狙うかのようなそぶり。主審にボール交換を要求する芸のこまかさも披露した。「こんな時に限って、打てそうないいボールがくるんだ」。それでも我慢してカウント3ボール2ストライク後に、サヨナラの押し出し四球をもぎ取った。
三原は大塚のプライドを考慮してか、試合後は「2ストライクまで打つなと指示した」とコメントした。のちに「1球も振るな」であったと明かしたが、大塚の我慢をたたえることを忘れなかった。打つのが商売の人間に、バットを振るなと命じたのは、やはり心にひっかかっていたのだ。

前掲書pp.363-pp.364

時あたかも、かつて監督をしながら追われたジャイアンツのV9真っただ中。
しかも、自身の率いた時代の4番川上哲治が敵将。
三原としてはとにかく一矢報いたかったと推測するが、代打に「1球も振るな」は少なくともプロでは空前絶後の奇手だろう。

監督の待遇面にも革新を起こす

水原茂、鶴岡一人といった同時代のライヴァル監督が金銭面に淡泊だったのに対して、三原はひと味違った。1969年に近鉄監督を引き受けた際、日本球界で初めて契約にインセンティブを盛り込んだ。
浜田氏は三原の姿勢をこう描く。

(三原は)「腕を買え」という姿勢を、堂々と貫いた。三原が行く先々で話題を集めるまで、球団経営者の監督に対する認識は”職人をまとめる親方”といった程度だった。ところが、三原は万年最下位のチームを確実に変えるし、観客も増やす。新聞は注目し、放送権料はアップする。経営者の監督を見る目も変わった。その実績をふまえて、三原は経営者と対等に張り合う経済闘争を繰り広げた。
西鉄から大洋へ移るときは、勧誘されたときと条件が違うと、正式契約の寸前までもめた。内諾という形の口約束は、簡単に無視される当時の球界だった。親会社と三原の間に立った球団社長の森茂雄は、早大野球部の先輩。だが、情にほだされることなく、約束通りの条件で引き受けた。
1959年暮れの入団で契約金が1,000万円だったと、のちに三原が明かした。監督にしてやる、契約金なし、という監督がザラにいた当時では破格の条件だった。ちなみに、三原は大洋から打診があった段階で、捕手の土井淳とひそかに接触。大洋の内部事情を克明に”取材”している。取材相手の人選といい、それでチーム内の問題点を見抜くところといい、さすがというほかはない。
近鉄、ヤクルトでも、似たような経済闘争があった。三顧の礼をもって迎えても、監督の発言力が大きくなると、経営者にとって監督は煙たくなる。親会社と三原との間で板挟みになる球団フロントが音を上げ、苦し紛れに「三原は金銭的にきたない」という情報を流したりもした。三原のそんな経済闘争が話題になるたびに、宿敵の鶴岡が言ったものだ。「監督の存在価値を、あの人が球界のお偉方に認めさせた。おかげで、オレたちもうるおった」。

前掲書pp.347-pp.348

時は流れ、監督が億を取るのも当たり前になった。知将の感慨を探りたくなる。
ちなみに『監督たちの戦い』は元々日本経済新聞の連載だった。
浜田氏は読者層の関心を考えて、人材操縦、リサーチ、交渉などビジネスと連続する要素をさりげなく盛り込んでいた。

苦難のファイターズ社長時代に予見的提言

『監督たちの戦い』の三原の章についた副題は「荒野に栄光を求めて」。
監督業を退いた後、1974年に三原は日本ハムファイターズの球団社長に就任。全く違った荒野での「戦い」に挑んだ。

野球人三原の最後の戦いは、苦闘、苦悩の連続だった。73年秋にヤクルト監督を辞任。間をおかずに、球界へ参入したばかりの日本ハム球団の社長に就任した。34年に巨人の前身、大日本東京野球倶楽部と契約してから、選手、記者、監督としてプロ野球とかかわってきたが、背広姿での戦いは、勝手が違うことが多かった。
グラウンドのことを知り尽くした三原も、ビジネス面では駆け出し。後楽園球場の使用問題で手を焼くなど、激動する新球団を率いて、スタートから苦戦を強いられた。
監督には中西太を据えた。中西と同郷の大社義規オーナーが望んだし、三原もヤクルトでコーチとして使い、監督学を伝授していた。だが、打撃コーチとしてなら第一人者の中西も、張本勲、白仁天、大杉勝男、大下剛史らのサムライを操るには人が良すぎた。74年、75年と連続最下位(当時の2シーズン制の通年順位)。観客動員も落ち、三原はやむなく監督を大沢啓二に代えた。
この2年間は、三原の野球人生の中でも、最も苦しかった時期ではないか。娘婿を更迭する苦しみに加えて、性急に勝利と人気を求める親会社筋から、野球人三原のプライドを傷つけられたこともあった。
シビアな球団経営をしている自負があったから、「親子」という語句には過剰に反応し、声を荒げた。財政的に厳しい制約を受けていたらしく、「先行投資を惜しむと、先細りだ」と、オーナーにぶつけるべき怒りを、記者たちにぶつけたこともあった。

前掲書pp.369-pp.370

半世紀近く前の話だが、現在のファイターズのエコーを感じてしまう。

思うようにいかない日々のなか、三原はこんなアイデアを漏らした。

経営者としての財布が大きくないから、この時期の三原はよく夢を語った。「瀬戸内リーグ」はそのひとつ。下関、広島(呉)、松山、高松にファームの本拠地を移し、独立興行をするというもの。ほかに「東北リーグ」や「北陸リーグ」なども結成し、ファン開拓と人材発掘を目指す考えも披露していた。

前掲書pp.374

現代の独立リーグ、プロ野球のないところへ球団を置いたイーグルスもしくは本拠地を移したファイターズの戦略に繋がる構想であり、それを1970年代に考えた事実に驚く。

またルールについても大胆に見解を述べた。

監督時代から「見せる野球」について、よく発言していた。「塁間の距離を短くして、走るスリルを増そう」「ボールのサイズを小さくして、投球と打球のスピードアップ」「ファウルラインを左右5度ずつ広げて、守備力も目立つように」「三振四球を二振三球にして、試合テンポを速く」などである。
どこまで本気だったか、今となっては分からない。経営者になってからは「野球のルールは、プレーヤーのために作られたもの。見る人のことを考えると、手直しをしてもいい部分はあるはず」と言っていた。
娯楽の王座に君臨したプロ野球だが、見せる配慮を欠いてきた。それに警鐘を鳴らすため、ことさら刺激的なことを言ったとも思われる。

前掲書pp.375

スピードアップなら「二振三球」なんて「ピッチクロック狂騒曲」の日米球界をあざ笑うような独創的提案だし、「見る人のことを考える」スタンスの卓見には敬服する。

「名将の提案なら注目されても、苦労する経営者の発案は、いんぎんに無視された」(前掲書同)。
孤高の存在でありながら、コミッショナー待望の声まで上がった「情報野球を確立した最初の人」(仰木彬)である三原の視点は没後40年近く経ってなお、掘り下げる価値を放っている。

※文中一部敬称略※

【参考文献】
浜田昭八『監督たちの戦い 決定版 上・下』(日経ビジネス人文庫;2001年)

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