地元で起業日記 第二章⑨
~起業準備から稼げるようになるまで~
僕は現在38歳で奥様と4歳の息子の3人家族。これから不確実な時代の中でも自分の力で稼げるようになりたいと地元で起業を目指している。起業準備中の今、なぜ僕がサラリーマンを辞めて地元で起業を目指したのかを過去を振り返りながら書いておこうと思う。そして起業前のリアルな試行錯誤を2週間毎に更新して、稼げるようになるまでの出来事や様子を書き留めておこうと思う。いつか僕と同じ様に自分の力で人生を歩もうとしている人に、少しでものお役立てば嬉しいと思う。早く稼げるようにならなければという焦りは勿論あるけれど、方向性を間違わない為に自分のrootsと向き合う事も大切。まず1年間を目標に更新していきます。
第一章 商売と僕(7回)
①母の手伝いから
②遊び場だった製材工場
③配達と地域の繋がり
④恩師との出会い
⑤木の自由研究
⑥おじちゃんおばちゃんが誇らしげに見えた
⑦身近にいる素敵な人に磨かれた美意識
第二章 営業と俺
⑧大学を卒業して営業会社に
⑨「ダイレクトセールス」ってこういう事なんだ(会わなきゃ始まらない)
⑩反響案件はいりません(苦悩から初契約まで)
⑪自覚した弱い自分
⑫尊敬する社長との出会い(毎日経営者に会うという事)
⑬24時間いつでも電話して良い上司
⑭「強い商品力」と「強い営業力」
(第三章 副業と私 7回予定)
(第四章 起業 7回予定)
土曜日更新(28回/1年間)
■第二章 営業と俺
⑨ダイレクトセールスってこういう事なんだ。(会わなきゃ始まらない)
営業生活がスタートした。生まれて初めての営業。ここからは出来るだけ爽やかに書くことを意識する。笑
同期は俺を含めて135人。皆気合が入っていてピシッとスーツを着て、髪形もキメている。営業所に配属されると各々に担当エリアを渡された。毎朝、朝礼が終わると大声で名前と担当エリアを叫んで、会社を飛び出して行く。俺の1年目の担当エリアは世田谷区の一部と都心から離れた西東京地区(西多摩含む)だった。
「山口、世田谷行って来ます!!!」
いざ、出陣、みたいな感じ。
会社を出る前に上司から言われた事は、
「とりあえず担当エリアにある全部の病院に行って、院長先生に会って来て。名刺を渡して会社説明が出来た所で、中から電話して。」
その声は優しかった。
「はい、行って来ます!」
俺は世田谷区奥沢の駅で降りた。周りを見渡すと確かに歯医者さん、整形外科、耳鼻科など数件の病院が目に入った。まずは一番近くの病院に入り(何科だか忘れてしまったが)受付の女性に名刺を渡す。
「○○会社の山口と申します、院長先生いらっしゃいますか?」っと尋ねると
「先生は診療中です。どのようなご用件でしょうか?」
「あっえっと、ホテル会員権のご紹介で・・・」
「営業でしたら結構です」
あっという間に追い出されてしまった。
今考えるとそりゃそうだ思う(笑)。そんな真正面から行って会える筈がない。ましていきなりホテル会員権の紹介・・・なんて怪しすぎる!でも田舎育ちの俺はまだ、世間の常識と厳しさを知らなかった(笑)
あれっ都会の人は結構冷たいんだな、そのうち会えるだろうと気を取り直して次の病院に向かう。それから2件3件と訪問したが結果は同じだった。5、6件と訪問してお昼になり、仕方なく上司に電話をした。
「すみません、まだ院長先生に会えていません。」
「そっか、お昼休みも続けて、また1時間後に報告して」
朝と同じ声のトーンでだった。
お昼休みは小さな病院のカーテンと自動ドアはロックされてしまう、そんな事を知ったのもこの時だった。1時間経って報告の電話をすると、
「会えたら帰って来られるから、また1時間後に報告して」
あれ・・・俺、院長先生に会わないと帰れない?
その後も訪問を繰り返したが院長先生には会えず、気が付けば夕方。辺りは暗くなり病院は締まる所が増えてきた。
上司に報告電話をする。
「もう、病院が空いておりません。」
急に冷たい声のトーンで
「まだ会えてないの?どうするの?」
え、どうするのっと言われても・・・。
そこでやっと気が付いた(笑)なるほど、こういう世界か!俺は慌てて
「空いてる病院を探して、飛び込みます」
「必ず会って!ガチャ!!!」
携帯電話の向こうで受話器を叩きつける音が耳に響いた。結局その時間から空いている病院は無く、途方に暮れて歩き続けた。結局、初日に電車に乗る許可が出たのは、21時過ぎだった。さらに驚いたのは会社に戻るとまだ殆どの営業社員が会社にいて、電話営業をしていた。「朝の雰囲気とは一変て怒鳴り声も聞こえてくる」。
上司からは、会える方法を考えて明日必ず結果を出す(会う)為の準備をするようにと指示が出た。一日はまだまだ長そうだ。俺がやらなければならない事は沢山あった。
訪問件数と訪問先の特徴まとめ、明日の訪問リスト作成、手渡すリーフレット準備、訪問先がなくなった時の入電リスト作成、反省とトーク練習・・・。
んー、会社経営者や院長先生に会う事がこんなに難しいなんて・・・。
さらに徐々に変わる上司と社内の雰囲気。同期の表情も日に日に暗くなっていった。
こうなったらとことんやってやろう!どんなに怒られようが、結果が出るまでやってやろう。研修でビジネスマナーや営業トークを嫌という程叩き込まれたけれど、会えなければ営業が出来ないじゃないか!考えていると悔しくてたまらなくなった。
俺は、ホテル会員権の営業マン=怪しい。
まずはこのイメージを払拭して受付を突破する方法を考えなければっと思った。
「会う為の試行錯誤」が始まった。
ちなみに少し時間が先回りするが、135人いた同期は社会人1年目が終わる頃には36人になっていた(笑)。
次回は、⑩反響案件はいりません を更新します。
■現在の2週間の取組
この2週間は、まず経営の師匠(勝手に呼ばせて頂いている)に事業相談に行った。
そこでアドバイス頂いたのが、事業に本気になっている時こそ家族を大事にしなさいっという事だった。4月に起業を目標に走り回っていると、どうしても頭の中は仕事の事でいっぱいになる。考えていないと不安だし止まっていられない焦りがある。師匠が貸してくれた本を読み、「それでも支えてくれているのは家族なのだ。」と改めて思った。上手くいかない時、家族は支えてくれている、少し動き出し忙しくなると家族は協力してくれる、さらに順調に回り出した時、家族はどうなるのか。より忙しくなるであろう自分と家族の間に隙間が生じる可能性があるのだ。師匠はいつも実体験をもとにアドバイスをしてくれる。
作業の方は毎週末、製材をしている。平日は変わらず木工学校で毎日木を加工し、伝統技術を学んでいる。また先週の日曜日はお世話になっている設計士さんと地元の「木のくに、ときがわ木の祭り」に参加した。木育の一貫で「くむんだー」という木のジャングルジムを子供達と造った。これが大盛況だった。4歳~小学生までの子供たちの真剣な表情と、目の輝きが印象的だった。俺がやりたいのはこういう事かもっとか密かに思う(笑)
この2週間で改めて考えた事を記しておこうと思う。
建築であれ木工品であれ、木を使う為には必ず製材工程が必要になる。
製材する為には伐採し、丸太を運び、製材機で挽き、トラックで運搬するという労働力が必要になる。当然、重機も必要になれば燃料費や修理も発生する。運搬には時間もかかる。だからこそ木材は地産地消モデルが良いのだ。しかし製材だけで利益を残す事は容易ではない。大量生産しようとすれば、大型製材機が必要となり、多大な労働力と在庫管理をする置き場が必要になる。しかも置き場は丸太と製材品の両方。そんな力はとても無いので、この従来型モデルは大規模工場に任せよう。できる事はやっぱり地産地消、さらに地産地消建築だ。
製材作業は週末だけでは追いつかなくなっている。しかし起業に向けて不安が増しているのが正直な気持ち。「起業は不安との闘いなのだ」と、これも師匠の言葉。
不安な時はなぜやるのかっ?って自分に何度も問いかける
木が好きで山が好きで、地元の山の木を建築に使う事が自然の流れだと感じているからだ。国土面積の7割が森林にに囲まれている日本が、建築に使う木材の7割以上を輸入しているっておかしいではないか。一方で日本の森林は放置されて荒れ果てている。俺の地元ときがわ町の森林面積も7割で、森林問題は日本のそれと同じなのだ。違和感を感じる木材業界の構造に「近くの山の木を使おうよ」っと心の声が聞こえるのだ。
今月末は「木のお酒プロジェクト」の取材だ。あるメディアが来て下さるのだ。
とてもありがたい!日本の山や木が必要とされている。地元の山の木を使うという簡単そうで難しいチャレンジを地元で続けていく!さぁ明日も製材だ!
次回は11月25日(土)に更新します。
どうぞ宜しくお願い致します。