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「どうしてこんなに憂鬱なんだろう。」

シェイクスピアの作品をはじめて読んだのは高校の時でしたが、おもしろいと思えるようになったのは留学してからでした。
日本語だろうと高校生には早すぎたんだ。だって400年前の演劇の台本だもの。
劇は見るためにあるのであって、読むためにあるんじゃない。

ウィリアム・シェイクスピア。
現在では天才と呼ばれ、現代英語に多大な貢献をした人物であり、その作品は大変高尚、トップクラスの教養、芸術の粋だとみなされている。

そうかな…… そうかなぁ……
たしかにシェイクスピアは難解で、でもそれは400年前の舞台芸術だからであって、日本の伝統芸能で400年前のものが現代人にわからないのと理屈は同じである。
シェイクスピアをはじめエリザベス朝〜スチュアート朝の舞台演劇は、一般大衆向けのサブカル芸術でだった。時代を超えて生き残ったから教養扱いされるのであって、歌舞伎とかと同じである(知らんけど)。
いまで言うと月9ドラマか、娯楽映画みたいなものだ。その中で、ちょっと目立った脚本家が、シェイクスピアだったのだろう。

ということを、知識として知るだけでなく、「なるほどなあ」と実感したのが、『ヴェニスの商人』をグローブ座で観たときだった。
だからこの作品は思い入れが深い。

英語でも読んだけど、わたしが持っている日本語のはこちら。
シェイクスピア(河合祥一郎訳)『ヴェニスの商人』(角川書店、2005年)
河合先生は現役のシェイクスピアの研究者であり翻訳家、劇の演出もされていたりして、声に出して読みやすい日本語でおすすめ。

『ヴェニスの商人』はヴェネツィアを舞台にした喜劇で、富豪の娘ポーシャの愛を勝ち取ろうとするバッサーニオと、バッサーニオを支援するために高利貸しのシャイロックと対立する商人アントーニオが主軸となって物語が進む。
喜劇なので、最後にはバッサーニオはポーシャと結ばれ、破産と命の危機に晒されたアントーニオは見事に難を逃れ、嫌われ者のシャイロックはコテンパンにされて大団円を迎える。痛快なコメディである。
たまに誤解されているようだけれど、タイトルが指す「商人」とはアントーニオのことで、開幕の台詞もアントーニオのものだ。人物としてどれだけシャイロックが有名であろうとも、バッサーニオが姫のハートを射止めるヒーロー役であろうとも、この憂鬱なアントーニオが物語の主人公である。
喜劇なのに、主人公がずっと鬱っぽいというのもなんとも不思議だ。

ロンドンにあるグローブ座は、かつてシェイクスピアが座付き作家として活躍した場所でもあり、現在はエリザベス朝の劇場を再現した建物となっている。
建物は円柱型をしていて、壁と屋根と座席があるのは外側だけ。建物の内側は露天の立ち見席で、そこに舞台がドンと置かれている。立ち見の観客は舞台にもたれかかり、客席を縫うように歩いて舞台に上がる俳優に声援を飛ばす。観客の頭上を小道具が飛び交い、俳優は観客のリアクションを誘う。

物語が始まってすぐに、バッサーニオは莫大な財産を継いだ女性が婿選びをはじめた話をアントーニオにする。ものすごい美人なんだ。すばらしい屋敷に住んでいて、父親の遺産はそりゃもうすごい。彼女の名は……

えっと、あー、あれ、そう。ぽ…… うーん?あーここまで出かかってる。ぷ…… ぽ……

(ポーシャ!)
(ポーシャ!!)
観客の囁き声があちこちから聞こえる。
がんばれよ、お前その人に求婚しにいくんだろ。
名前くらい覚えておけよ、金目当てかよ。

…… そう、ポーシャ!ポーシャだ。なんて美しい名前なんだ……

爆笑。

そうか、君はその女性に恋をしているんだね…… うん、他ならぬ君の頼みだ。もちろん僕も、できるだけの手助けをしよう。その金持ちに求婚しにいくのに、一体いくらいるんだい。言ってみろ。

心底切なそうにバッサーニオの手を握るアントーニオ。
いやその人、たぶん金目当てだよ?
でも助けてあげるんだ……
なんて美しい友情…… 友情かな?

グローブ座も、なにもウケ狙いだけでこんな演出をしているのではない。
シェイクスピアの脚本にはト書きがないので、どのように演出するのか、どんなふうに台詞を解釈してどんな感情を込めるかは、演出家にかかっている。そして、シェイクスピア劇の解釈は星の数ほどの研究があって、この演出もそのうちのひとつを取り上げているのだ。

なんだこれ。
おもしろすぎやしないだろうか。
観客を巻き込んでしまう演出も、あくまでも軽やかに、エンタメとしての演劇を成立させてしまうさりげなさも。
舞台という一過性の作品は、映画やテレビドラマよりも軽快に観客の笑いを引き出してしまう。

これがシェイクスピアの舞台かあ。
なるほど、これはおもしろいな。また観よう。
そうやって留学中に幾つかの舞台を見れたのは幸いだった。
日本でもシェイクスピアはいくつか観たけれど、グローブ座ほどのおもしろさと軽やかさをもった舞台は、残念ながら観れなかった。

『ヴェニスの商人』は歴史に翻弄された作品で、第二次世界大戦を経たわたしたちは「ユダヤ人の高利貸しシャイロック」を、単純な悪役としてみれない(というか、みることに罪悪感を覚えさせられる)ようになっている。

シェイクスピアがどれほどユダヤ人のことを知っていたかはともかくとして、当時ユダヤ人は「自分たちとは違う」けれどそこそこ身近、という点において、悪役としてとても扱いやすいグループの人間だった。

時代が下りると、英文学における悪者はたとえば「ターバンを巻いて、とがった顎髭をした褐色の人」になったりする。どこの国の人が云々というよりも、その時代の人たちにとって「自分たちとは違う、とはっきり分かる比較的身近な存在」が悪役となりうるのだ。
(だから黄色い肌で狐のような目をした人が悪役になるのは、もっと最近のことだ。)

テンプレの「悪役」。アンパンマンで言うところのバイキンマン。ヤなやつだけど人間味があって、ずる賢いのに間抜けな、愛すべき敵キャラであるはずのシャイロックは、いつの間にか大戦の傷跡を一身に引き受けた悲劇のヒーローになってしまった。
わたしはそういう扱い、好きじゃないんだけどなぁ……
映画作品だとその扱いが顕著で、ともするとアントーニオやバッサーニオが人でなしに見えてしまう。そうしないと、多分映画自体がバッシングを受ける。
舞台作品よりも難しいところだと思う。

そんなわけで、わたしはおもしろさに突き抜けた演出のほうが、正義側の理不尽や敵側の哀愁をより感じられるので好きですね。好みの問題だけど。
そういう演出と解釈の幅の広さこそが、これだけ長い間シェイクスピア劇が人々の心を掴む理由かもしれない。

『ヴェニスの商人』の思い出をもう一つ。

2013年に、蜷川幸雄演出の「ヴェニスの商人」を観に行った。
シャイロック役は、あの市川猿之助さんがされていた。
西洋演劇のなかで、ひとりだけ歌舞伎の動きをしている。
去り際にアントーニオたちと客席を睨め回すその視線、その首の動きに、釘付けになった。彼は舞台上の異端者であり、そしてその場を支配する圧を持っていた。
すごいな。
これが演劇の力か、と、改めて思わされた体験だった。

日本ではなかなか観る機会のないシェイクスピア劇だが、機会があればまた行きたいものだ。
舞台作品は、映画よりもやっぱり舞台がいいものだし。

あーあ、またロンドンに行ってグローブ座に観に行きたいなあ。

舞台のDVDもありました。おすすめです。

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