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寂しさとは何なのか
昔から、「寂しい」という感情がいまいちわからなかった。
でも先日、ひょんなことから寂しさの解像度が高まった。きっかけは、新プロジェクトX オウムVS.科捜研〜地下鉄サリン事件世紀の逮捕劇〜を見たこと。
当時、世間を震撼させた「オウム真理教地下鉄サリン事件」。このときの衝撃は今でも覚えている。私はまだ小学生になるかならないかくらいの年齢だったが、父が通勤で乗った日比谷線が、ち事件の起きた電車の1本前だった。もしこの電車に乗っていたら、父の人生はあそこで絶たれていたかもしれない。それを思い返すたびに、両親が今もそろって元気でいてくれるのは奇跡で、本当にありがたいことなんだなと感じる。
話がそれた。
私はこの番組で、1995年当時は科捜研がまったく力を持っておらず、警察組織のなかでは何の期待もされない存在だったということを初めて知った。科捜研の女という科捜研の職員が活躍するドラマでの活躍ぶりからしても、科捜研は今では警察組織になくてはならない存在だ。科捜研がそのような地位を得ることができたのも、このオウム真理教地下鉄サリン事件でのある職員の大活躍があってこそなのだと知った。
この事件で大活躍したのが服藤さんという男性は、誰からも期待されず必要とされない立場だった科捜研で声をあげ、捜査に加わり、証拠をつかむ。それどころか犯人の取り調べにも加わり、自白をとるところまでやってのけてしまう。
そして、この方は一大仕事をやり終えたときの気持ちを、「寂しくなった」と話していた。司会者にその理由を聞かれると「仕事の充実感が消えてしまった」などということを言っていた。
私ははっとした。
寂しいというのは対人間に対していうものだけではないのだ、と思った。寂しさとは、誰かがいなくなる、誰かとはなれる、ひとりぼっちになる、などの対人場面で生じる感情だと勝手に思い込んでいた。そして個人的にはその感覚がよくわからなかった。
しかし、この言葉を聞いたとき、あったものがなくなること、特に気持ちをポジティブに満たしてくれていた、人生を満たしてくれていたようなものがなくなるときの気持ちなのだろうと直感的に思った。喪失感に伴う感情といったところか。
そして、寂しいという言葉が対人場面で使われがちなのは、人間が社会的動物であることからくるのかもしれないと思った。人間にとってポジティブで人生を満たしてくれるものは、多くの場合人との関係の中で生じるために、人に対して使われることが多いということなのではないか。そんな仮説が浮かんだ。
服藤さんの言っていること、その感覚は容易に理解することができた。それは寂しいだろうと思った。そして私は寂しいという感情をあまり体感したことがないのは、気持ちの大部分を満たしてくれていたものがなくなった経験がないためなのだろうと気づいた。
喪失は悲しみという感情と結び付けて考えられることが多いが、そのなかでも感情(特に喜び)の喪失が寂しさを生むのだろう。