Maybe you’re the same as me We see things they’ll never see
レスポンス書簡。
どこか、勝手にいぬ氏がクリエイターには憧憬を持ち続けていたのではないかと思っていたことを告白しておく。やり口はいろいろと違えど、結局全てはつくることに関わる活動≒クリエイティブということと考えているのだろうと思っていたので、古臭くいえば、なんでもクリエイティブという手口ニュートラル的に創造活動をしたいのだろうと。まあ、もちろん創造のプロセスを促進(ファシリテート)することもクリエイティブ活動であるとは思う。
とはいえ、俺の中ではやはり個人でクリエイションできる人はやはりクリエイティブすべきという思いもあることも吐露しておく。コピーライティング、CMプランニング、アートディレクション、それらのクリエイティブディレクションというのは経験も適性もあり与えられた力でもあると思うのだ。ついぞ関われなかったから思うことだった。
とはいえ、このように語ってくれないことには、そこまで気持ちは切り替わっていたのだな、とは気づかなかった。これこそ往復書簡の効用と言えよう。
短いやり取りながら、なんでそんなに頑な(私見)なのかと当初思ったのだが、しばらくして、それは全くもって俺のことでもあると思ったのだ。全く逆なだけ。俺はもう人事やらファシリテートやらに飽き飽きしていてコミュニケーションとかクリエイティブに回帰しただけで、いぬ氏はその反対なのだろう。
きっとそういう時であるということだろう。お互いに向かいたい対象が入れ替わっているという。いずれかは統合される。螺旋階段のように高次元で一体化してくるのだ。正反合、アウフヘーベン、物事の進化はそうなっているというのが弁証法という考え方である。
これは単なる公式の当てはめというだけでなく予感でもある。人事はクリエイティブを求めている。デザイン、といってもいいだろう。組織の在りようをデザインすること、組織と人の関係をデザインすること、そこにはクリエイティブが必要だ。広告業界の組織人事へのコンサルティングもニーズが高まっているようだ。必ずしも販促や広告の仕事だけではないということだろう。いぬ氏のしているファシリテートというのは、まさにその生まれつつある間隙ということだろうとも思う。どちらも少しずつ関わった俺はそう感じている。
反対に、人事の世界はどうだろう。ここ数年だが関わって感じたのは、採用は広告に似ている。プロモーションだ。刈り取り、というメタファーもある。人材育成は、俺のレベルが低いからだろうが、クリエイティブとも言い切れないと感じている。労務、人事企画、部門人事などは経験もないしピンと来ない。
しかし人に関わる仕事の難しさというのは、人という変数が、ブレが大きいものを対象にしているから難しいのだろう。む、また話題がそれてしまった。最近は興味がとんとないのだが、不確定事項が大きいなかで曖昧なもので評価されることが煩わしいということなんだろう。
戻って、いぬ氏と俺はま反対の対象というだけでなんとも似た志向なのだろうと感じた、というのでoasisの名曲、Live Foreverの歌詞の一節をタイトルにした次第であった。Dag.
追伸
ところで、ワークショップの魅力、ザッと書いてもらったけど、良ければもう少しじっくりと語ってくれないか。好きになったキッカケとか、原体験などあるのだろうか。
私は、ファシリテートは「人為的」に過ぎるという思いが強くなってきて、興味を損なっていった。かつて「ラーニングファシリテーター」であるのだが。余談ながら私が一番創造においてワクワクしたのは、ロスジェネ広告会と銘打って、電通博報堂ADKなど同世代からひとり一社などと制限を設けて10人弱くらいまで集まってワイガヤした勉強会と飲み会だ。かつてTwitterが流行り始めたころにナンパして集めた。今でも仲が良い。そのメンバーが好きすぎて、メンバー編成こそがクリエイションだという信念にも似た思いが残っている。