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こんな私だけど、私を、ただ生きる、

写真は

煩悩リセット稽古帖、小池龍之介さんの本である。


昔、心底裏切られたと感じる出来事があり

苦しみのなかで、この本を何度も読み

線をひいていた時期がありました。

自分のなかの執着がほどける手引書でもありました。

もうすっかり、昔の出来事となり

久しぶりに本棚から出して眺めて

そういえば、いまどきは

インターネットとかYouTubeなるものが

小池龍之介さんの

最近を伝えているのではなかろうかと

検索したら、ちょっとびっくりしたり

やっぱり、、みたいな複雑な気持ちになったので

文章を書いてみようかとおもったわけです。

小池さんの著書はこの後も

数冊購入して読ませていただきましたし

運よく、小池さんの悩み事相談を

投稿するサイト?に投稿して

自分の悩み事を

小池流に切ってきただいたことが

ありました。

(その後、その悩み事は本にまで掲載されていた(;^_^A )

が、しかし、、

そうか、そうかと思う反面

しっくりおなかに落ちない回答なのでありました。

それは、わたしが未熟だからではないか?と

おもっておりましたが

その後、樹木希林さんや、瀬戸内寂聴さんなんかの

講演をきくと

なんか、どしっとおなかに落ちるわけです。

この差はなんなんだろか?というのが

今回の解脱失敗、とかいうキーワードに

隠されていたわけです。

小池さんは小池さん自身が、救われたい

何者かにならなければ、自分を受け入れることができない

劣等感をお持ちであったように感じます。

私の持論ですが

だれも、自分自身以外の

何者になることもできません。

あの世にいくまでは、ずっと、いやでも自分のまま。

どんなに修行しても、勉強しても

別の光輝く存在にはならないわけです。

誰かの役にたちたい

ひとつでもいのちを救いたい

平和な世の中でありますように

そういう願いのもと、

小さな一歩を繰り返していくことは

可能ですし

目の前の誰かの気持ちを

すこしでもやわらかくしてあげることも

可能ではありますが

そうすることで、自分の価値を高めたいと

おもってしまうことが

劣等感の裏返しではないでしょうか?

自分のことを、まずは自分が一番うけいれる

そこを土台にしないと

だれかが、自分を受け入れるお手伝いもできない

ただ、指摘に終わってしまう。

こんなわたしだけど、わたしをただ生きる

出来るときは、すこしでも

誰か

ほかのいのちのためにもがんばる、くらいかなと。

小池さんが、いろいろな人に

期待されたり、評価されたり

それがゆえ、素晴らしい存在でいなくてはと

思いつめてしまったのではないか?と

推察にすぎませんが、、私の意見です。

小池さんがゆっくりと

ご自身を

回復されていくことを応援しております。








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