余白

余白の話をするといつも思い出す言葉がある。

それは「あまり」だ。

ある企画に携わっていたときに、あまりをテーマとした美術をつくらないかという提案があった。
ドーナツの写真が貼ってあるスライドに、ドーナツの穴の部分はあまりと図示されていたのを今でも思い出すことができる。

どういった美術をつくりたいのか聞いてみると、行き止まりや顔はめパネルなどを挙げていた。

顔はめパネルは顔をはめる部分があまりで、そのあまりに顔を入れるものだ。顔を入れると、あまりの部分がはまっている顔なのか、顔はめパネルなのかわからなくなるらしい。考えたこともなかったが、言われてみれば納得はできる。

そのあまりをテーマとして作る美術の中で1番気になったのは、巨大迷路だ。迷路となる空間にわざとあまりを残して作り、そのあまりの部分へ壁を動かすことによって、迷路が変化するというものだ。

更にその巨大迷路は覗くことができる。
覗く側は巨大迷路で迷っている人たちがあまりだと感じ、巨大迷路から覗く人を見る人は覗いている人があまりだと感じる。

迷路を覗けることは目新しいことではないが、テーマと関連して覗く仕様になった迷路など見たことがなく面白さを非常に感じた。

個人的には面白いテーマだと思っていたが没になってしまった。残念。

人の感覚は主観しか感じることができないため、自分以外があまりと認識する仕組みになっている。

知覚の構造上では仕方のない主観的な感覚を、少しでも客体に寄せていく取り組みはなかなかできないだろう。

最近では自分に勝つ!自分なりの幸せ!多様性!など多く叫ばれている。その主体となる私を客体となる他者に寄せることは嫌がられる。
私の存在が不安定になってしまうからだ。

余白には余白としてちゃんと存在してほしいのである。

余白は私を作り、私は余白を作っていく。
そう捉えることで、もう少しだけ余白について考えられるのではないだろうか。


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モンモランシーの通り
私が生きることができるようになります。

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