フランスでショコラトリー店員になる#9 契約
私は、部屋探しに明け暮れていた。
Perrache駅の近くのシェアハウスは予算オーバーで断念。それから、リヨンの端にあるGrange-Blanche駅のアパルトマンも内覧した。
埃まみれのがらんどうの部屋を見て、改めて気付いた。
そうだ、家具なしに住んだら、一から揃えないといけないんだ…。
途方に暮れ、ガードレールに寄りかかり、道路を行き交う車を暫く眺めていた。
1年以上住むなら家具なしでも良いとは思うが、葡萄摘みにアルザスへ行くとなると、その後ここに住むのはせいぜい7~8か月程度。今更ながら、この中途半端な期間、住まいを探すのは難しいと痛感するのだった。
そんな私にも、ついに決断の時がやってきた。
私はバスに乗り、窓の外を眺めていた。華やかな景色がなんとも言えない寂し気なものに変わっていくのを、不安を抱えながら見ていたのだった。
辿り着いたのは、リヨンのはずれ。メトロも通っていないような所だった。
商店もなければ、ひと気もない場所。家の壁は薄汚れており、空の厚くグレーがかった雲と同じ色をしていた。
アパルトマンの大家さんは、まるでハリーポッターにも出てきそうな、どこかの番人のようなお爺さんだった。
薄暗い、静かな家の中に通され、案内してもらっていると、部屋からひょっこり若い男性が出てきた。
ここには、既に2人住んでいた。要は、Colocation(共同生活)だったのだが、2人共若い男性だった。
少し、不安があるものの、ここには利点があった。
何しろ、家賃が安い!
280ユーロだった。
ただ、一緒に住むのが男ということと、ひと通りのない、寂しい街だったことが少々引っかかっていた。バスが通ってはいるものの、交通の便も決して良いとは言えなかった。大家さんが、魔法使いみたいなお爺ちゃんで、意味深だったのも気になった。
私は迷いに迷ったが、そこに決めようかと思い始めていた。
大家さんの家に、後日契約を結ぶ為に書類を取りに行った。
そこは、見慣れたリヨン中心地。ベルクール広場から少し入った――その辺りで名店の、Pignol(ピニョル)というパティスリーの通りのアパルトマンだった。
大家さんは、私が訪れると、家の中に案内し、ゆっくりとした足取りで書類を取りに行った。
古びた椅子に腰を掛け、契約書を渡されたが、難しいフランス語がぎっしり書かれており、その場ではスラスラと読めるようなものではなかった。
「あの…これ、よく読んでから書きたいので、一度持ち帰っても良いですか?」
「では、なるべく早く持ってきて下さい。」
…こうして不安を抱えたまま、書類を持ち帰ったのだった。
丁度その頃、もう一軒部屋を見学しに行っていた。これが最後のつもりで、やはり両方見てから決めようと思い、内覧した。そこは何ということはない、中心街のベルクール広場に程近かった。値段は安くはなかったが、もうそんなことはどうでも良くなっていた。
ここにしよう!!
そう決め、例の寂し気な界隈のアパルトマンは断ることにした。
大家さんに電話をし、謝罪して、その件は終わった。
その日のうちに私はPart-Dieu駅近くにある不動産屋で、契約書を前に座っていた。ベルクール広場の、ちょっと高いアパルトマンの契約に来ていたのだ。
そのアパルトマンは、最上階でエレベーターすらなかったが、私に残された時間はなかった。8月一杯で出なくてはいけなかったのに、もう8月末だったのだ。
本来であれば、保証人がいなければ結ぶことの出来ない契約だが、私は幸運にも、保証人を見つけることができたのだ。
前回、泣いて電話を掛けた日本人の友人の知り合いだった。
困りに困っている私を見かねた友人が、その知人に頼んでくれたのだ。
保証人になってくれた人もまた、日本人だった。
不動産屋が口を開いた。
「保証人はいますか?」
「はい!」
「では、ここに書いてください。」
…
書類には、保証人の名前、職業、在仏歴等…とにかく事細かに書かなくてはならず、その方にとても申し訳ない気持ちになった。
「仕事は?」
「秋から葡萄摘みに行きますが、その後はリヨンに戻ってショコラトリ―で働くことになっています!」
「では、Contrat(契約書)は持っていますか?」
「契約書?そういうのは書いていないんですが…」
「つまり、口約束だけなんですね?」
不動産屋の顔が、引き攣った。
ドキっ。
そんなこと言われても…そんなに前に契約書なんて書かないでしょう?
そう思いながら
「でも、先日も仕事の話をしに行ったばかりなので、絶対大丈夫です!!」
…そう押し切って、やっと不動産屋を納得させることができた。それは、やはり保証人の存在が大きかったのだろう。
小難しい契約書を前に、最初はいちいち電子辞書を広げて調べていたものの、キリがなかった。
まぁ、大丈夫でしょう!
そう思って、ついに契約書にサインをした。
…辛い辛い部屋探しだった。
語学学校も途中で投げ出し、毎日リヨン中を歩き回った。
色んな部屋を見たが、もう私は疲れ切っていた。
500ユーロ近くと、少々予算オーバーではあったが、私も秋から働く身。
このくらい大丈夫!
サインをした後、保証人の方にも連絡を入れ、お礼を言った。
これで肩の荷が下りたのだった。
さて、もう8月末。私は今まで世話になったステイ先を出なくてはならない。
一つずつ、日本から送られてきたものを段ボールにしまっていった。
9月からは、これまたこちらで知り合った日本人の知人宅にお世話になる。彼女はバカンス中、暫く家を空けるので、その間いて構わない、と言ってくれたのだ。
日本人とフランスでつるんだりするのは…
渡仏前はそう思っていたが、困ったことがあった時に助けてくれるのは、紛れもない、日本人なのであった。
人の温かさが身に染みた、夏の終わり――。
新たな生活に向けて…。