フランスでショコラトリー店員になる#7 部屋探し①
2週間後に出て行って欲しい――。
突然のことに、私は動揺を隠せなかった。
「いやぁ、息子夫婦が帰ってくることになってね。場所がなくなるんだ。悪いんだが、当初の契約通り、今月いっぱいはいて構わないから、部屋を探してくれ。」
「そんなこと急に言われても困ります!」
気付いたら、涙がボロボロとこおぼれ落ちていた。
「だからこうして、早く言っているじゃないか。まだ2週間もあるんだぞ?」
2週間も…?
2週間しかない、でしょう!!
私は裏切られたような気分になり、その晩は涙が止まらず途方に暮れていた。アンティークの、小さなベッドに横になり、不安をかき消すかのように日本から持ってきた携帯電話を握り締めていた。
地方のパティスリ―の話がなくなり、近所のショコラトリーの仕事を考えていた矢先のことだった。家が近いということもあり、こんなに好都合なことはない、と思っていたのに…。
渡仏してから、丁度2か月が経つ頃だったが、この2か月の間、リヨンの中心地にある住まいから学校までは徒歩で通える範囲。メトロ等の交通機関は殆ど利用せず、sncf(国鉄)以外はどこへ行くのも歩きだった。何でもある中心街で事足りていたので、別の場所で住まいを探すことに臆病になっていた。私はどこへ行けば良いのか…全く考えがまとまらなかった。
――翌日から、私の部屋探しは始まった。
今まで無遅刻無欠席だった学校は、なんだかもうそれどころではなくなってしまい、部屋探しに明け暮れて遅刻早退をし、そしてやがて行かなくなってしまった。こんなはずではなかったが…2週間以内に住まいを何とか探し、引っ越さないといけない。もう、学校どころではなくなってしまったのだ。
先ず当たったのが、リヨン中心地付近の不動産と、”Paru-Vendu"という無料配布の冊子だった。この無料冊子は、毎週木曜になると不動産屋の店頭に置かれた。この冊子をもとに、品定めしている間にも、どんどん物件は決まってしまい、なかなか思うように事が進まなかった。
急に出て行ってくれと言われた時は、かなり動揺したが、ととことん話し合っているうちに、ようやく気持ちの整理がついたのだった。お互いの思っていることをきちんと伝えることで、誤解も解けた。マダムは、物件探しも手伝うし、これからも週末等、いつでも遊びに来てねと言っていた。
そんな折、こちらで知り合った、中国人の友人宅付近に物件を見つけた。
リヨン中心部から少し離れていたので、そこには行ったことがなかった。私は彼女に電話をし、その辺りの治安について尋ねてみることにした。
彼女は音楽の勉強で、もう長いことフランスに住んでおり、知人の紹介で一緒にオペラに行ったり、ご飯を食べたりする間柄になったのだった。
「え?!家探してるの?だったらうちにおいでよ!」
私は彼女の突然の提案に、何度も電話口で確認した。
閑静な住宅街の庭付き一戸建てに、中国人彼とフランス人女性と3人で暮らしているが、フランス人が出ていくので、空きが出るというのだ。
舞い上がった私に、友人が
「一度見においでよ!久しぶりにご飯でも食べよう♪」と提案してくれた。
早速、彼女の家に遊びに行った。
メトロのホームを出て、地上に出た私は、それまで見慣れた中心街とは”違う顔”のリヨンに、少し驚いた。
治安は良いらしいが、ちょっと静か過ぎるというか、寂しささえ感じた。
家はとても綺麗だった。
彼とは初対面だったが、とても良い人だった。
私は、中華料理を手際よく調理をする友人の横に立ち、お互いの近況などを語り合った。
ふと、友人が音楽をかけ始めた。
なんと、聴きなれた音楽が流れ始めた。J-POPだ。
中国でも日本のドラマは人気らしく、日本の音楽はよく知られているとのことだった。
その後、家を案内され、掃除は分担制、だとかそういった細かい所まで話していた。居心地の良い空間に、心はもう決まっていた。カップルと住むことに抵抗がないわけではない。しかし、そんなことは言っていられなかった。
「フランス人がいつ出ていくか、はっきり決まったら連絡するね!」
そう言って別れを告げた私達だったが…
なかなか連絡が来ないので連絡をしてみると、その共同生活をしていたフランス人が、「やっぱり出ていくのやめるかも」と迷いだしたというのだ。
9月中旬には決めるとのことだったが、それでは遅い。
「なんてこった!それはすぐに探した方がいいぞ!」
ステイ先のムッシュが知り合いにあたってくれたが、アメリカ人との共同生活で、それも定かではなかった。
間もなく8月が終わろうとしていた…。
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