距離の補正
読書期に入っている。
つぶやきの国の見知らぬ人の小説10選から、気になる未読の作品を拾っては読む、を繰りかえしている。(@図書館)
ウワサの凪良ゆうをはじめて読んだ。
またしても超話題の書はなかったので、それは予約の列にエントリーしつつ、書棚にあったのを借りて帰った。
予約をして忘れたころにお知らせが来て「お、そうだった」といそいそ図書館に出向き、待望の本を受け取るのも楽しいが、
回転寿司の、流れるレーンの流れているお皿をとるときみたいに、受け身なんだけどインスピレーションとか運頼みで、本をピックアップするのも「偶発的な出会い」があって楽しい。
そしてその偶然の産物が当たりだったり、はまったり、タイムリーだったりすると、運命感じてしまってなお楽しい。
というわけで『滅びの前のシャングリラ』を読んだ。
書架をわたしの気分でレイアウトできる my 図書室があったなら・・・
有川ひろの自衛隊三部作の近くに忍ばせたい感じである。
雰囲気おわかりいただけるだろうか。
エアロスミスの曲が流れる人類滅亡の危機を描いた映画みたいなんだけど、ハリウッド的ま~るくおさまる感はなくて、うーん令和だな〜って感じ。
マジで地球規模の危機で、生身の人間が突如『北斗の拳』(ここは昭和かよ)の世界に放り込まれたというか、とにかく大ピンチなのである。
救いがあるとかないとか、どうでもよくなるくらいにおもしろかったから、一気に2回読んだ。
おもしろくて終わるかなと思ったら、2周目で気づいた言葉。
noteで「わたしのために書いてくれた?」と勘違いしちゃう記事に出会うことあるけど、小説でもたまにある。
親子の距離感、まさに今それ問題。
親の立ち入ることのできない領域が増えてきて、それは当然のことでいいんだけど、
ちゃんとやっておかないと本当にたいへんなことになるよ、という重要指摘事項をも、ことごとくスルーされ、悪態をつかれ、
そしてだいたい予想通りの困った事態になり、そこでもバトルを繰り広げながら「まじでやばいよ!」という状況を認識させ、そのリカバリーを親が代わってするわけにもいかないので、道筋を示して選択させてご本人を動かして、っていう鬼の情報収集と魔の遠隔操作。
(注:これは上の子アメとの話)
だれよりも心配しているのに、幸せを願っているだけなのに。
その道中にはなにかと腹立たしいこともあり。
こんなところに簡潔に整然と述べられていたなんて…。
距離だったんだねー
活かすも殺すもその距離が適正であるかどうか。
そして今は過渡期にあるのだね。適正距離模索期間。
凪良ゆうありがとう、一つ進めた気がした。すこし楽になった。
若いうちの苦労は…というけれど、キャパオーバーになることのリスクの方がクローズアップされてきており、「ほどほど」の苦労を味わっていただきたいのだが、その見極めが〜たいそう難しく。
ほどほどとはいえ苦労している我が子を指をくわえて見ているくらいなら…飛び出して助けてやりたいっていうか、わたしが処理した方が早いっしょってつい思ったり。
手に負えなくなる手前の頃合いでフォローしてやるのが大人の役目だろう、とは思うけれども、不手際も度重なると、みすみすわかっているのに対策もせず、尻拭いだけさせられるこっちの身にもなってくれよ、と文句の一つも二つも三つも…言いたくなる。
いろんな局面でその手の小競り合いが起こっており、
いっそ「もう知らないからね」とぷいっとできたらどれだけ楽かと思う。
「だから言ったじゃん」と言うだけでよいのならどれだけ楽かと思う。
それで済まないから親って辛いのだなぁと思ったり。
たいへんなことになる、の「たいへん」とは最悪の想定であって、そうならないことを願ってやまないけれど、そうなるかもしれない事態に備える。
ここの矛盾を抱えながら動くのって結構ヘビーなのよね!とも思うし。
本当の本当は、最悪の事態になる前にこちらにヘルプを出してほしいんだよ。ヘルプを出してもらえる対象でありたいのよ。
でも、ご本人もだんだんと年齢を重ねてきているわけなので、事前に最低限のできる手立てや算段をしてから行動してくれーなにもせずに困ったことになってから軽々しく「どうしよう~」を使うのやめてくれーと思うこともしばしば、って実際、つい最近そういう案件が勃発し、情報のやり取りやら手配やらハラハラヤキモキやら大変だったので。
この一連のすったもんだをループしてる昨今。
あ、そうか、ちょうどもう一段階「離れ」つつある時期なんだわね~
行き着く先が見えたような、俯瞰して落ち着いたというか、
奇想天外エンタメ作品の、一行にすくい上げてもらった。
う~ん、これがあるから読書はやめられない。
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