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8月31日の夜に

小学生の頃、8月31日といえば決まって宿題に追われていた。


計画性のなさは昔から。絶対に前もって終わらせてしまうことができなかったわたし。7月、夏休みがスタートすると大きな模造紙をテーブルに広げて1mの竹の定規を使って母と一緒に(ときには父もまじえて)“夏休みの計画表”を書いたはずなのに。計画表は作るときはとてもウキウキして楽しいのだけれど、旅行などのビッグイベントが終わってしまうと、いつしか貼られているだけになり、最後の数日になるとただの恨めしい紙となった。

なかでも毎年悩みのタネだったのが“お天気の記録”。朝起きたら天気を書く、それだけのことがどうしても続けられなかった。晴ればっかりだから、とついつい後回しになり、そうこうするうちに空欄が続き、そのうち“晴れ以外のお天気”も確かにあって、それがいつだったのか全く思い出せないということになる。今でこそ、ネットがあるから1か月のお天気なんてすぐわかるのだろうけれど、当時はそんなものはなかった。なんで自分はこんな簡単なことを継続できないのだろうと、毎年絶望的な気分を味わっていた。(数日すればその絶望もすっかり忘れてしまうから毎年繰り返すという、、、こどもって平和だ)中学生になってその夏休みの“ノルマ”から解放されたとき、夏の終わりに新聞に「夏休みの天気の記録」みたいなのが載るようになって、なぜコレをもっと早く新聞社はやってくれなかったのだろうと思ったのは今でも鮮やかに覚えている。しかし、今思うとどうしてそこまでして毎日の天気の記録をつけなければならなかったのだろう? およそ1か月の天気をただ記録するだけではなんの意味もなかったような気がするけれど。例えば、それを振り返って「ほとんど雨がふらなかった」とか「夕立のあとに虹を見た」とか、掘り下げるようなことがあればもうちょっと興味を持てたかもしれないのにと思う。でも、大丈夫、毎日記録することから脱落しても、今のわたしは十分すぎるほどお天気に興味を持っているし、ほぼ毎日空も見上げている。

中学生以降も、お天気の記録はなくなっても計画性のなさは変わらず。苦手な数学のドリル、なにをやっていいかわからない自由研究は大抵あとあとまで残っていたっけ。でも、少し知恵をつけた?わたしは、8月31日だけではなくて、9月1日の始業式のあとにもかなり宿題をやる時間が捻出できることや、2日以降の時間割を精査して授業がまわってくる教科順に片付ければいいことを学んでしのいでいた。


今思えば、そんなところに知恵や労力を使うなら、計画性を身につければよかったと思うのだけれど、なかなか人生はうまくゆかない。


もうすっかり大人になったわたしは、そんなふうに宿題に追われたり、よくわからないノルマからは無縁な生活になったかと思いきや、相変わらず不定期に〆切に追われ(けれどお金が絡むと人は強くなるというか、必死感もハンパないので基本守れなかったことはない)る生活をしている。そして、このnoteのように、誰から強制されたわけでもなくても“毎日行う”ことを自らに課していたりもしている。


今夜は、特に〆切もなくてこどもの頃よりははるかにのんびりと穏やかな気持ちですごせているかと思いきや、いつもと変わらず粛々とシゴトをしつつ漠然と先々のことを考えて不安になったり、とあるお坊さんの説法をYoutubeで聞いたり(こんなこと、数年前の自分でも全く想像がつかなかった!)、こうして日課となっているnoteを書いたりしている。

さきほどから降り出したようで耳を澄ますと雨音が聞こえてくる。
そういえば今日の帰り道、びっくりするほど風が涼しくて「あぁ夏も終わるんだなぁ」と肌で感じていたのだけれど、雨の影響もあったのかな。
記録づくしの猛暑も過ぎ去れば数字になってしまうけれど、お天気というのは記録することじゃなくて、日々“体感する”ことがきっと大切なんだろうと今のわたしは思っている。




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7月30日からはじめた、100日間連続投稿マラソンも3分の1ほどが経過しました。特にテーマを決めているわけでもなく、とりとめない文章をひたすらつづっているだけですが、これからもゆるゆる続けていければと思っています。完走する頃は11月。この暑さが懐かしく思えるくらい寒くなっているのかな。そして、世の中はどんなふうに変わっているのでしょうか、、、




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