精神疾患に対する今と昔
緊急事態宣言が解除され、新型コロナウイルスに対して一時の緊張が少しは緩和されたのかな…なんて感じていたところに、北九州市の第2波(確定だと私は思っています)がやって来ました。これは「お前らまだたるんでる場合じゃないぞ!」という警告なんじゃないかと思っています。どの地域でも起こりうる事ですから、いち医療従事者として、いち市民として、出来る範囲の事をしっかりやろうと思っています。
さて今回のタイトル「精神疾患に対する今と昔」ですが、これだけ聞くと歴史的な話っぽいですが、そういう内容ではありません。以前投稿した「精神科」は弱すぎるにも少し近い所もありますが、いわゆる健常者(という言葉は好きではないですが便宜上)からの精神疾患に対する視点を比較してみようと思います。
というのも、今回は理由があるのです。
数日前、夕飯時の家族の会話です。ウチは子どもが2人(どちらも男)いるんですが、次男(小2)が「パパは病院で何の仕事をしてるの?」的な話を始めました。時々話をするんですが、やはり「精神科」というものが内科や外科との区別がうまくつかず、イマイチしっくりこないようです。
すると、長男(小5)が「精神科って病気治らないんでしょ?」と言うのです。私はちょっと驚き「何でそう思うの?」と聞きました。すると「なかなか退院出来ないって聞くし…」と。でもハッキリ分かっているという感じではありませんでした。
「そんな事はないんだよ」と返すと「ふーん」と言って、別の話題に変わっていきました。しかし私の中では、この会話がずっと心の隅に残ってしまいました。
そんな訳で、前フリが長くなりましたが本題へと進みます。ここで言う昔と今の境界は、ざっくりとですが昭和以前と平成以降くらいで考えてもらえればいいかなと思います。
いつもの事ですが、あくまでも個人的意見ですのでご了承ください。意見や質問は受け付けます。
・昔は恐れられていた
昔で言う精神病(あえてこう書きます)は、統合失調症や双極性感情障害のような見た目に刺激の強い疾患を中心に、精神科医療は動いていたように思います。私は詳しいと言える程ではないですが、勉強した広くない範囲やWikipedia「精神保健の歴史」などを見る限りでは、そんなに間違いではないかなと思っています。
しかし当時は、今と比べて精神疾患についての知識や治療法も乏しく、社会的な理解も低かったため、精神障害者(統合失調症など)を恐れ、隔離したり差別したりして「住む世界が違う人」のような扱いをしていたようです。これは「出来るだけ関わりたくない」という感情を具現化したものだと考えています。
代表的な所で「座敷牢」「ライシャワー事件」辺りが分かりやすいのではないでしょうか。自宅で、施設で、地域で、あらゆる形で生活圏を区別(差別)されました。今で言うなら、ソーシャルディスタンスですね(全然良い意味ではないですね…)。
もちろん、医療的意味合いが全く無かった訳ではないと思っています(ちゃんと考えていた人がいたと思いたいという気持ちでもある)が、当時の文献から見る劣悪な環境からは、そのほとんどが批判の対象だと言わざるを得ません。今であれば人権問題だと大騒ぎになるんでしょうが、特に第二次世界大戦以前の歴史を見れば、その思考はほとんど無かったと言っても過言ではないかと思います。
・今はマウンティングの対象に
平成以降の精神科医療の対象はは、統合失調症や双極性感情障害などから、うつ病や認知症や発達障害などにも範囲が及び、若干(本当に若干)ですが、精神疾患に対する壁は低くなったと思います。私が精神科病院で働き始めて10年ちょっとですが、その期間だけでもそう感じる点はいくつもあります。
1番の理由は、インターネットの普及に伴って、精神疾患に関係する言葉の意味やその症状などについて、手軽に情報が得られるようになったからではと考えています。加えて、様々なメディアで報じられるようになったり、有名人がカミングアウトしたりと、情報の発信数もかなり増加したように感じます。
その影響からか、昔のような「住み分け」的な距離感は若干(これも本当に若干)薄くなりつつあり、社会的な許容範囲は広なり、同列とは言えませんが、昔よりも立ち位置は向上したように思います(偉そうに聞こえたらごめんなさい)。
しかし、そんな中で昔と大きく変わったのは、先にも書いた距離感です。昔は「恐いから遠ざけていた」のですが、今は「自分達の方が上だ」という感覚が強いように感じます。いわゆるマウンティングです。これは精神疾患の有無ではなく、単純に精神障害を蔑み、あたかも対象者がそうであるかのように見下すために利用している、という印象です。ネットスラングで「基地外」「糖質」あたりが、そういう使われ方をしているように思います。
・今も昔も「特別扱い」は変わっていない
今と昔では、その行動やベクトルの方向は違ってはいますが、結果は結局ほとんど同じものです。自分達を「普通」とみなして、対象者を「特別扱い」しているにすぎません。もちろん、悪い意味です。
「何をもって普通というのか」という議論をし出したら、永遠に答えは出ないだろうし、ある程度でまとめる事もできないでしょう。手段として多数決で決められるかもしれませんが、必ず陰の側面は出てきます。
これは多分、ずっと解決しない問題なんだと私は思うんです。だから「差別を無くそう!」なんていうのはある程度で頭打になってしまい、働きアリの法則ではないですが、ある程度は溢れてしまいます。
ですが、有難いことに現代社会では逃げる場所が沢山あります。それが施設なのか、行政機関なのか、ネットなのかは人それぞれですが、耐え難い事を我慢し続ける必要は無くなっています。
だから、無理せず、自分が安心できる場所を見つけてください。でも、間違っても負の方向では落ち着かないでください。今の時代、ある意味楽で、ある意味生きづらい世の中です。だからこそ、周囲に惑わされず、自分の居場所を見つけましょう。
こんな事を言っていると「偽善者だ!」と避難されそうですね。私の前で同じような事を意気揚々と話していたら、私も「偽善者だ!」と言うかもしれません。でもそれで良いと思います。結局、ほとんどの人が自分自身が可愛いんですから。
冒頭に戻りまして私の息子の話ですが、機を見てちゃんと話をしようと今は考えています。もう少し色々な経験を経て、それなりの思考と感情が持てるようになったら、精神科や精神疾患の事、私の仕事について、膝を突き合わせて話すつもりです。