人生、二十七で死ねるなら。
将来の話をしたい。
自分の将来の夢とか、将来設計とか、
そういう、ありふれた、話ではなく。
「将来」の話をしたい。
「将来」
という、
概念。
ガイネン。
いまだ存在せずとも、
そこに厳然として存在する、
「将来」
先にあるにもかかわらず、
皮肉なほどに遡及的な、
「将来」
想像するしかないと同時に、
想像を掻き立ててくるまさにその、
「将来」
僕らは、
この「将来」というガイネンに
想像上で、遡及的に、厳然と、
束縛されている。
往々にして、
その残酷な束縛力は、
過去よりも、
現在よりも、
強い。
そして、僕らはがんじがらめになる。
人生、六十まで生きる「将来」
人生、八十まで生きる「将来」
二十一世紀の今、
人生、百まで生きる「将来」
そして、僕らはがんじがらめになる。
現前として存在するイマを忘れて、
存在しない「将来」に、
僕らはがんじがらめになる。
「人生、二十七で死ねるなら。」
数字は象徴に過ぎない。
ただひとへに、
このがんじがらめからの解放を、
僕は、僕らは、
切に叫んでいるだけなのである。