マグカップ1つに、思い出1つ
マグカップというのは、なぜか
他の食器とは、違う。
ウチの場合、
まず、同じものが揃ってなくて、
大きさも色も形も、バラバラ。
気にいるのが見つかったら、
今あるのを一掃したい。
例えば、アイボリーのシンプルな形のとか…
なんて時々思い立つけど、
そうするには至っていない。
壊れていない食器を捨てるのは、
できればしたくない。
不燃ごみの袋から見えてしまう、
"まだ使えそうだけど、古くさい食器"
を見かけると、
なんか、見てはいけないものを
見てしまったような気持ちになるものだ。
そうして、何となく生き残っている
我が家のマグカップたち。
大きさがバラバラなのは、
意外と良くて、
たっぷり飲みたい時、ちょっと飲みたい
で、使い分けている。
改めて見てみると、
自分で買ったのって、無い!?
ほとんどは、子どもたちが、
旅行先で買ったり、
友達からプレゼントされたりしたもの。
幾つかは、こうして飲み物以外を
突っ込まれ、働いてくれている。
子どもたちに、
捨てないでくれ、なんて言われた事ないし、
勝手にどうにかしても、
多分文句は言われないと思う。
今現在、必要ないから、
うちに置いてかれた訳だし。
でも、やっぱり何となく捨てられない。
他の揃いのプレートやボウルにはない、
気持ちとか、思い出があるからなのか?
実家に行くとさ
え〝っ〜〜〜‼️
これまだ取ってあるの⁉️
みたいな物って、あったりして、
親に対して、
「いい加減片付けなさいよ」
など思っていたけど、
自分が確かにそこにいた歴史を感じる
場所こそが、The 実家。
子どもたちが、帰って来た時に、
なんだかホッとするのは、
マグカップみたいな、どうでもいいものが
まだある場所なんじゃないか…
揃いのカップが綺麗に並んでいる光景に
憧れを抱きつつ、
このバラバラ感に愛おしさや、
自分らしさみたいなモノを感じるのである。
断捨離推しの世の中に対抗するべく、
そして、片付けが苦手な自分を肯定すべく、
いまこのブログを書いてはみたものの…
納戸や子ども部屋を探せば
まだ点在していそうなマグカップ…
"実家特例"
「使ってなくても、居ていい」
発動なのである。