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🎨📝:ゴッホ 幻の名作『ひまわり』が日本に来たいきさつ

ゴッホの名作『ひまわり』は、現在7作品が知られています。

そのうちの1点はかつて日本にありましたが、戦時中の空襲によって焼失してしまいました。この作品については、近年メディアでも取り上げられることがあります。

話が伝わるうちに内容が変わってしまう「伝言ゲーム」のように、この絵が日本に渡った経緯についても、一部誤解や認識の不足が見受けられます。

一般的には「芦屋の資産家・山本顧弥太が購入した」と語られますが、この表現は正確ではありません。さらに詳しく述べると、「武者小路実篤が山本に購入を勧めた」とする説もあります。これはある程度事実に基づいています。

では、日本にいた武者小路実篤は、どのようにしてフランス・パリにあったこの作品を知ったのでしょうか?

実は、画家・里見勝蔵が絵の修行のために渡仏し、パリでこの作品を見つけ、武者小路実篤に知らせたのです。里見勝蔵はブラマンクに師事しながらゴッホの研究も行い、その中でこの『ひまわり』に目を留めました。

また、里見はフランスから膨大な蔵書を持ち帰り、その中には2冊の古いレゾネ(作品集)が含まれていました。1冊はレンブラントのもの、もう1冊はゴッホのもので、彼がゴッホを熱心に研究していたことがうかがえます。

1921年、絵の修行のために渡仏した里見は、すぐにゴッホの墓を訪れました。彼の残した画帖には、同年12月の記録として、パリ郊外オーヴェール=シュル=オワーズの風景、ゴッホとその弟テオの墓、そして教会のデッサンが残されています。

このように、『ひまわり』が日本に渡るまでには、里見勝蔵の発見と、武者小路実篤の働きかけが大きく関わっていたのです。

右側の手がき文字は、フランスの地名(エクス、ガルドンヌ、カーニュ)と日付(1921年12月2日)、そしてプロヴァンス地方の名前が書かれている。

里見勝蔵はフランスで本来ブラックに師事したいと考えていましたが、偶然の出会いからヴラマンクに学ぶことになりました。そのため、日本では彼がヴラマンクの影響を受けたフォーヴィスム(野獣派)の画家と見なされています。しかし実際には、彼はゴッホとレンブラントの研究にも力を注いでいました。

このような背景があり、ゴッホの作品が売りに出された際、里見はその購入に強い情熱を持って取り組みました。彼は何としてもこの名作を日本に迎え入れたいと考え、武者小路実篤に連絡を取りました。そこで、日本中の画家や篤志家、パトロンを募り、日本全体で購入を計画したのです。その中で、芦屋の山本氏が多額の資金を提供しました。所有権は、武者小路実篤が主催する白樺派に帰属する形となりました。

生前、私は里見勝蔵画伯ご本人から直接この話を伺いました。

里見勝蔵によれば、この絵はカンバスではなく板に描かれており、縦98cm、横65cmのサイズで、フランスのM40号に相当する大きさでした。

しかし、神戸の空襲によりこの貴重な作品が焼失してしまったことは、非常に残念なことです。

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