四月の淡い青
朝、目が覚めると四月だった。カレンダーをめくって三月を捨てる。
カーテンを開けると外から小さくパパパッと音がした。窓に水滴が垂れて光を反射させている。
「雨……」
二〇一七年の四月はしっとりと始まったようだ。
「雨だねー」
突然、後ろから話しかけられて驚いた。むっとして振り向く。肩まで伸びた髪をぼさぼさっと手で梳いて、葵が立っていた。
「おはようコーちゃん」
まだ眠気の残っている、ふわっと漂うような声。
「葵、おはよう」
朝の挨拶を返さないと葵は怒る。名前を呼ばないと葵は怒る。もう習慣のようになって、自然と「葵」が出てくる。
「コーちゃん、またソファで寝てたでしょ。だめだよ、まだ寒いんだから」
「ごめん、疲れちゃって」
「風邪引いちゃうよ」
他人の、というより僕の体調管理にうるさい葵は年に五回は風邪を引く。春夏秋冬、そしておまけに一回。
「葵、散歩に行かないか」
「ん、いいよ」
起き抜けの散歩が昔から好きだ。葵も散歩は好きらしく、誘うと大抵付いてくる。
「そういえば四月だね、コーちゃんの好きな」
葵にそのことを話したのは付き合い始める少し前、5年ほど前のことだ。自分のことさえよく忘れる葵は僕のこと、特に好きなことを必ず覚えている。
四月が好きなのはいくつか理由があった。でも、本当のところを僕は誰にも話したことがない。葵にも。
「うん、四月だね」
そうとだけ返して、僕は着替えを始めた。
春が好きだった。モノクロの冬が明けて、色味鮮やかになる季節。春が嫌いな人とはそれだけで性格が合わない気さえした。
葵と出会った時、僕は失恋の直後だった。桜はまだ咲いていなくて、梅はすでに見頃を終えた。
久しぶりに恋人を思う必要がなくなると、すかすかと軽くなった身体と心を持て余す。そんな日々を新宿や渋谷の人波をかき分けることで埋めていた。
葵とは、その頃友人に誘われていった飲み会で知り合った。
友人と葵と僕の三人だけだったせいか、飲み会が終わる頃には葵はすでに「コーちゃん」と呼ぶようになっていた。
「コーちゃん」
葵が呼ぶ。桜がまだつぼみを揺らす並木道。不必要になった傘を振りながら、川沿いに延びる道を二人で歩く。友人だった頃の葵とも歩いた道。別の誰かとも歩いた。あの時の、その時の、桜は咲いていただろうか。葉っぱだったろうか。通る度に芽吹くように思い出す。
「春だよ、コーちゃん」
「春だね、葵」
名前を呼び合う違和感がなくなったのはいつからだったっけと。思う間に葵は喋っている。
「桜はまだだったね。今日は暖かそうだから昼過ぎには咲くかな」
「今日は咲かないだろう」
「そっかあ」
どうでもいい話。朝の空気とかすかな桜のにおい。それと葵の香り。朝の世界に葵はとけ込む。完全にとけ込めばいいのに。そう思うけれど、葵はそこにいる。
「また桜が咲いたら歩こうか」
どうせ言わなくてもそのつもりだろう。言わなければその予定は流すだろうけれど。僕が。
「来週には咲くだろうから、その時かな」
話す間に桜道は終わる。
「葵、少し待ってて」
少し外れた道で、コンビニに寄ってトイレを借りる。前の彼女とよく来たコンビニ。あの時買ったおにぎりやお菓子をちらっと見て、まだあることになぜだか安堵する。一瞬だけ見えた虚像を払う。パックのドリンクコーナーで待っていた葵を見つけてイマに戻る。
四月は人と過ごす時間がとても長い。前の彼女もその前の彼女も、……膨大な人との思いでが四月には存在していると強く感じる。
葵には言えない。四月には自分が恋した人たちへの残っていた情がざわつくと。四月に思い出す彼女たちはとても綺麗だと。淡い記憶が世界を青くぼかす季節。
僕は四月が好きだ。
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