浮かれたくなるから沈んでいくの
薄手のコートを出して、黒のダッフルコートはクリーニングに出した。四月になって、吹く風はまだ冷たいけれど町は確実に春だった。
一昨日見た満開の桜は美しかったし、柔らかい日差しを浴びながら飲むカフェラテも美味しい。それなのに、僕ときたら今日死のうが興味もないような顔でコーヒーショップで一人座っているのだ。
広げた本を読むでもなくぼうとしていた僕の耳に鈴の音が聞こえて、待ち人の来店を知らせた。
「窓際、気持ちよさそうだね」
まっすぐ歩いて近づきながら、君は言った。
「このお店、何度も来てるのにまた迷っちゃった。遅れてごめんね」
薄い春色のコートを畳んで椅子にかけながら君は言う。肩につく明るい茶髪は、光を反射してキラキラと光った。
「今日はどうしたの」
君だけが話す空間は、なんて心地よいのだろう。空調のかかっていない店内はとても静かで、それをより感じさせる。けれど、僕も黙っているわけにはいかなかった。
「今日は、その、話があって」
うまく話せず、泣きそうだ。したくないことを、僕はしようとしている。
「別れようって」
詰まると言い出せなくなりそうで、一気に言った。シミュレーションした時より早口になって、僕はそんなことでも自分がまた一つ嫌になる。
君は、ぽかんとしているように見える。丸い目がとてもかわいいと思う。呼吸が止まっている一瞬は、世界から切り離されたみたいで。君の桜色の鞄だけが少し揺れた。
「どうして?」
その質問には困ってしまう。だって、君に原因はないから。僕の中にしかなくて、それを言ったら君は怒るだろう。
「どうして?」
数秒の沈黙にも耐えきれないように、君は繰り返し聞いてくる。
「もうすぐ誕生日だから」
「意味分からない」
すぐ返される。納得させなきゃ終わりそうにない。僕にはその自信がない。
「誕生日だから、なに?」
君は根気強い。いつもそうやって、言いかけてやめたことを全部きかれる。時々そんなところが嫌に感じて、一瞬後にそんな風に気にかけてくれることを嬉しく思う。
「別れるなら誕生日の前がいいなって。祝ってもらってその後で別れると君に悪いし。時間もお金ももったいないかなって」
また、一気に話してしまう。怒られるのが怖くて、早く終わりにしたくてつい口が余計に動く。
「だから、どうして別れたいの?」
「聞かないでほしい」
「そうはいかないよ」
柔らかい君の声が、強く責めない優しさが、僕の心に罪悪感を持たせる。
「私は、君のことを大事に思ってる。だから、理由も聞かずに、納得もできずに別れるなんてできないよ」
君が僕のことを考えてくれることが嬉しいと、素直に思う。だから、身勝手な僕が許せないしどうして好きでいてくれるのかわからない。
「どうせ君のことだから、また勝手に不安になって、私が君を好きじゃなくなるかもとか考えたんでしょう。バカだから」
当てられてしまった。
「うん」
それだけ答えるとなんでかほっとした。春の匂いとコーヒーの香りが混ざって漂っている。そんなことにも今気がついた。
「ほんと、バカだね。私はね、君がそうやって私を愛してくれるところ好きだけど、あまり困らせると本当にフっちゃうからね」
「ごめん」
「じゃあ、コーヒー飲んで帰ろ。私まだ注文もしてないよ。お店の人に気遣わせちゃったね」
そう言ってふふっと笑う。春の風みたいでかわいい。
堅い木製の椅子にずっと座っていたから、二人とも身体が固まってしまった。
「んー!」と身体を伸ばすと、お店の人が来てくれた。
「ご注文はいかがなさいますか」
「コーヒーで」
二人の声が重なる。次のデートも、君とここでコーヒーを飲みたい。暖かい時も寒い時も。
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