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化学系博士課程学生が考える:introductionを書く理由
論文の構成は、一般的にabstract、introduction、experimental、result and discussion、conclusionからなります。
abstractはその論文の要約、experimentalは実験項、result and discussionは結果と考察、conclusionは結言を示します。
そして、今回の問題であるintroductionはその研究の背景を示します。
この項では、その研究をやる理由を示さなければならないのです。
私の研究生活はこのintroductionとの戦いでした。
研究室内部での発表や学会発表のたびに、introductionがわからない、この研究をやる意味がわからないと言われ続けてきました。
その度にぐちぐちうるさいなーと思いながら、全て無視してきました。
新しいことならなんでもいいじゃないか。
やってみたいと思う気持ちが1番のintroductionじゃないか。
常にそう思ってきました。
だから、去年真剣に考えてみたのです。
なぜintroductionが必要なのかを。
結論から先に言うと、現在の研究活動が真理探究ではなく社会的活動だからです。
詳しく説明します。
まず、研究に意味を求めるという行為について。
人生に意味はありません。
意味は言葉にあります。
だから、人生に包含される研究活動にも意味はありません。
言葉の論理だけで考えればこうなります。
ならば、研究の意味という単語は作為的に作られたものであるはずです。
ならば何が作るか。
それは社会であり、世間です。
ただそのためだけにすることを養老孟司さんは純粋行為と呼びました。
しかし、その純粋行為は世間に晒された瞬間別の意味を帯びるのです。
例えば、ある人の顔の写真を踏むという行為を考えましょう。
ただ一人で写真を踏むだけなら問題はないでしょう。
しかし、それを街中でやったらどうでしょう。
それはただ写真を踏む行為でなく、ある人にとっては侮辱行為となり得ますね。
同じ行為でも他者の目が入り込むことで別の意味が生じるわけです。
ここでは、純粋行為は言い訳にはならないでしょう。
研究も一緒です。
ただ一人でやるならいいんです。
自分が知りたいことを知るために実験をする。
これが、純粋行為としての実験ではないでしょうか。
しかし、ここに他人の目が入る。
その研究だとお金が取れないだの、実用的でないだのとなんだのと。
そして、この実用的な部分。
ここについては日本の大学の起源が絡んでいると思っています。
日本は大学という概念を明治期にアメリカから輸入しました。
そして、それは文明開化のため、当時の最先端である西洋に技術的に追いつくための機関として導入されたのです。
つまり、真理探究としての科学というより、街を作るためのテクノロジーとして導入されたと私は考えています。
だから、これが日本の大学の起源ですから、思考がサイエンスよりもテクノロジーによるのは当然なのかなと考えています。
話がそれました。
つまり、まとめると、introductionは社会で研究する上で必要なのです。
そこで、私がとても嫌だなとつぐつぐ思うのが、初めから社会の中の研究に慣れてる人が多いということです。
純粋行為としての研究を通ることない人が多い気がします。
どういうことか。
研究活動において、どうやったら成果が出るかについてはある程度型があると思っています。
この分野の研究はこのような流れがあり、だから次はここをやる。そして、この実験とこの実験をして、この測定とあの測定をして、結果をまとめれば論文になる。
これを繰り返せば業績がたまります。
しかし、こんなのは作業じゃないでしょうか。
私は面白いと思わない。
もちらん、このステップの間に多くの努力があるのはわかります。
でも、明らかに直線的すぎる研究が多い気がする。
そもそも、真に新しいことをしようとしたら、イントロなんかあるわけないじゃないですか。
だって、自分が第一号なんだから。
これが少し言い過ぎなのは私もわかります。
しかし、もっと、自分がintroductionをつくってやるくらいの気合のある人がもっといてもいいんじゃないでしょうか。
結果さえ溜まれば、introductionなどあとで適当に書けるものです。
というか、結果が出ればそれはどこかしら適切な位置に収まっていきます。
このことは私にとって本当は悔しいのだけれど。
だから、初めの走り出しからガチガチなintroductionなどなくていいのでは、と私は思います。
今やアカデミックも社会のアカデミックです。
純粋に真理を追う場所ではないのかもしれません。
私は純粋行為としての研究が好きです。
それでは。