見出し画像

化学系博士課程学生が考える:モネの眼と私の眼

最近、国立西洋美術館でクロード・モネの睡蓮の展示が始まりましたね。

初日に上野を通りかかったら大行列でびっくり。
本当に人気ですよね。

私はそこそこ絵画も好きなので、今回はモネの絵について書いてみたいと思います。

ちなみに私はあまり睡蓮が好きではないです。
私がモネの絵で一番好きなのは『ノルマディの田舎道』という絵です。

では、本題に。

モネの絵というのはモネの眼になっていると思っています。
つまり、モネの視界になっています。

モネの絵をよく見てみますと、ある一点が鮮明に描かれていて、そこ以外がぼやけていることがわかります。
もちろん絵によりますが、昨年の展示で見たモネの絵はそのようなものが多かったです。
私が見た絵は、確か崖の上に灯台があるものだったかな。
灯台にピントが合っていて、その周りがぼやけてたんです。

これは人の視界そのものだ、と私は思ったわけです。

試しにそこらへんの電信柱を見てみる。
すると、周りの電線だの街路樹だのは、あるのはわかるけどぼやけてしまう。

人は見たいものを見るわけです。
その意識外のことは無意識にシャットアウトしている。

研究でも一緒ですよね。
見つめれば見つめるほど、ぼやけるものが増える。
一点を深く掘ろうと思えば、周りの穴はさらに広がってしまうのです。

モネはそのぼやけたところ、意識外のところを書きたかったのではないか。

私はそう思いました。

人の意識は全てを見ることはできない。
それを私の眼がモネの眼を見ることによって思ったのです。
面白い構図ですよね。

また、モネの絵にはモネの心があります。
私はここが好きです。

人の視界は感情に大きく左右されます。
楽しい時は天気が曇りでも心は晴れているし、逆もまた然りです。
そして、その心の持ちようによって景色などは簡単に変わってしまうもの。
カラムが失敗した後の不忍池と、単結晶が取れた時の不忍池が同じであるはずはありません。

私が見た絵の中に、モネが泣いているんじゃないかと思わせるものがありました。
嬉しいような、切ないような、どこか遠くを見つめて懐かしむような色彩を感じました。

これが、岡潔のいうところのモネの純粋さなのかなと思いました。
確か岡潔はモネは純粋なだけでつまらないと言っていた気がしますが。

それでも、私はモネの純粋さが好きです。
純粋なものが少ない、今日この頃ですから。

それでは。

いいなと思ったら応援しよう!