『歌壇』2021年12月号
①大判のスカーフ外す優雅さに終わりし婚を語れり人は 佐藤モニカ 知人だろうか。大判のスカーフでも外すようにさらりと優雅に離婚を告げた。大きな悲しみや苦しみがあったはずなのに、それには触れない。辛苦を経た後に、人の器は大きくなるのだ。主体もそう思ったのだろう。
②「『春原さんのうた』監督・杉田協士氏にきく」〈観客として一本の映画を見終えた時は、その人物のその後の人生についても思いを巡らせているといったように、見ていないはずの時間も含めて心に残っているのだと思います。そのあり方が、短歌の成り立ちに通ずるのではないかと考えています。短歌に親しんでいる方からよく余白という言葉を聞きますが、それは映画で言うところのフレームの外側に近いのではと考えています。〉とてもよく分かる。どんな表現でも描き切れなかったものがある。あるいは描き切らないものが。
短歌はその部分が他の表現より大きいのかも知れない。短歌に慣れるとくどいと思えることが増えた。それはそれで厄介なのだが。
③「『春原さんのうた』原作者・東直子氏にきく」〈小説を書く行為は、先の見えない暗い世界に小さなあかり一つで歩いてゆくようなものである。一方短歌は、世界をあてどなく歩いていて不意に触れたもの、目に入ったものを素手で捉まえるようである。つまり、物語を編むのは意識的に構築していく持続力で、短歌は偶然を捉える瞬発力なのだと思う。場合によってはそれが反転することもあるが。〉ふむふむ。瞬発力、そうかも知れない。最初に一首思いつく時は。最後の反転というのが面白い。
〈言葉だけの表現の短歌が言葉にしなかった部分が、言葉以外のツールで表現され、その表現がまた言葉に立ち返るとき、言葉の可能性も新たに見えてくると思う。〉コラボによってインスピレーションが交感することの理想形だろう。
④津金規雅「時評 モーツァルトと永井陽子」〈もともと韻律と意味内容とは不即不離なのだが、永井作品では時に五句三十一音の調べが内実を超えて読者に訴えかけてくるケースが少なくない。〉この後、永井陽子の韻律について述べている。内容重視の短歌観では測れない魅力。
〈(『モーツァルトの電話帳』の)五十音配列という編集方針は題詠的性格を一段と強める結果をもたらしている。〉近現代短歌の価値観を超えて、万葉集以来の短歌観と結びつくという観点だろう。
最近、永井陽子に関する言及を立て続けに見た。とてもいい傾向だと思う。もっと語られていい歌人だ。短歌史の中で、他にもたくさんこういう歌人はいる。掘り起こしが必要だろう。
⑤吉川宏志「かつて『源氏物語』が嫌いだった私に」
〈「たよりない感じなのが、かわいいのだ。しっかりしていて、人の言うなりにならないのは、本当に不愉快な態度だ。」しっかりとした女性として、源氏は空蝉や葵上を思い出していたはずです。自分の言うとおりにならない女性には、プライドを傷つけられ、非常に不快感を持ってしまうのです。〉平安時代からこういう見方があったんだ。それを女性の紫式部が見抜いて書いているというのが何とも言えない。
⑥中西亮太「歌人斎藤史はこの地で生まれた」
際限なき思ひを強ひて打切りて地虫釣りつつ余念なくならむとす 斎藤史
〈六七五七十で(…)結句だけを大幅に破調にしているのだ。(…)短歌でありながら短歌風でない、新しい調子を生み出そうとしたと私は見る。〉こういう文体の分析、面白い。
雁来紅に朝明けの光さえさえと父かへります日となりにけり 斎藤史
〈この第三句の使い方は(斎藤茂吉)『赤光』の「死に近き母に添ひ寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる」に倣ったものにちがいにない。〉上句にも下句にもかかる三句のオノマトペ。史はアララギに入らなかったが茂吉の文体を吸収していた。
⑦米川千嘉子「年間時評」〈激しい変化の時代、若い作者に注目が集まりやすいが、より広い年代のさまざまなキャリアを持つ作者の作品の面白みももう少しじっくり論じられてほしいと思う。作品を作者の人生と分けてテキストや「作中主体」の視点で語られることが有効である場合ももちろんあるが、人生に引き寄せた歌の味わい、一人の歌人の変化を辿って読む豊かさを、あらためて思うのである。〉どちらかに偏らずに評が行き届くのが理想。米川の言う側に少し重心をかけるべき時だろう。
⑧梶原さい子「平成に逝きし歌びとたち:柏崎驍二」
沖さ出(で)でながれでつだべ、海山(うみやま)のごどはしかだね、むがすもいまも 柏崎驍二
〈津波の後に到った、あるいは到ろうとした一つの境地が、方言を発するからだを通して現れ出ている。これは、共同体というからだが発した言葉でもある。方言でなくては言えない、きわどく、厳しい、そしてあまりにも大きな考え方である。〉方言で短歌を作ることに懐疑的だった私だが、この梶原の論は衝撃的だった。特に「共同体というからだが発した言葉」という部分に心を打たれた。
⑨梶原さい子
よきことを思ひて生きむ傷み負ふ地のうへに死ぬいのちなれども 柏崎驍二
〈この歌を、私は絶唱だと思っている。病を得る一方で、多くの亡くなった人、苦しんでいる人を見たからこそ生まれた歌。「地のうへに死ぬいのち」は柏崎さんのものであり、大きく傷ついた東北に住むわれらのものでもあり、生きる人々すべてのものだとも言えるが、いずれみな死んでしまうとしても「よきことを思ひて生きむ」、そう言わしめた心の澄明さ、強さの前に、立ち尽くしてしまう。〉この歌とこの読みに強く感動した。
柏崎の歌に引き上げられるように梶原の心が高みに上っているのが分かる。そこに自分が手が届いていないのも痛い程分かる。『北窓集』を再読したい。
⑩もう何ヶ月部屋を片付けてゐるだらう少しづつすこしづつ捨てて 万造寺ようこ 断捨離だろうか。とても寂しい印象を受けた。部屋を片付けてスカッとした、というのとは全然違う。細々と物を捨てることは自分の人生を少しずつ諦めていくようで悲しい。
⑪遠藤由季「川本千栄『森へ行った日』書評」〈刻々と進んでゆく歳月と病を経て日々年齢を重ねてゆく身体。それらと歩調を合わせ、時には立ち止まり、深く下ろされてゆく錨のような重みを自身の内面に自覚する。〉とてもうれしい評でした。遠藤様ありがとうございます。
2022.1.10.~12.Twitterより編集再掲