『歌壇』2022年9月号
①まだわれと関はりのなき少女期の母が樹に凭る写真いできぬ 志垣澄幸 母は存在していたが、主体は存在していなかった頃の写真。この人が後に自分を産むのだ、と分かってはいる。しかし写真の中の母はまだそのことを知らずに、主体と関わりのない時間を生きているのだ。
②吉川宏志『源氏物語』〈源氏はかつて「子供が三人生まれ、一人は帝、一人は皇后、もう一人は太政大臣になる」と予言されていました。(…)源氏はこの後、この予言に引きずられるように生きていくことになりっます。〉言葉が先にあり、それに行動がついて行ってしまう。
〈古い歌の言葉を源氏はいくつも記憶しており、状況に反応して、ふっと出てくる。そんな歌の言葉によって、心が導かれるメカニズムが、ここに現れている気がします。心より先に、歌の言葉があるんです。〉これも近い感じ。心があって言葉が出るのではなく、その逆だというのだ。分かるなあと思う。
③中西亮太「歌人斎藤史はこの地で生まれた」綿密な資料収集と分析が光る連載。もう最終回だ。斎藤史の『魚歌』前史とでもいうこの連載は斎藤史研究の大きな一歩となるだろう。
〈瀏と史が不在となった途端に歌話会が崩壊したのは偶然ではないだろう。〉歌人斎藤史を生み出した熊本歌話会が、史と父の瀏が去った後崩壊してしまった。このエピソードも強烈だ。『熊本歌話会雑誌』終刊号に載った作品を、その改作と思われる『魚歌』中の作品とを比較した批評眼が光る。ここにも文語口語の問題と定型・破調の問題がある。
〈史の思想の根本には権力や権威への不信があった。〉そしてその最初のきっかけはニ・二六事件ではなく、済南事件だと喝破する。資料とそれを読み解く力はここまで評論を面白くするのだと思った。
④谷岡亜紀『鑑賞佐佐木幸綱』
火も人も時間を抱くとわれはおもう消ゆるまで抱く切なきものを 佐佐木幸綱
〈まず注目するのは「火」と「人」が等価なものとして並列されている点である。当然「ひ(も)」「ひと(も)」という頭韻+リフレインによる音楽性は意識されただろうが、さらにここには、「消ゆるまで」が示すように、両者を燃えるもの、さらには限りある命・熱量、として同一視する認識が示されている。そしてさらに「火」と「人」は下句で「切なきもの」と言い換えられる。この「切なさ」は、命の有限性に根差しつつ、この世の全ての根幹をなしている。その有限性をもたらすものこそが「時間」なのだった。〉歌もいいが、谷岡の評がすばらしい。それこそ燃えるような熱量のある評だ。そして過不足無く歌の魅力を言い切っている。学びたい。
2022.9.20.~23.Twitterより編集再掲