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『歌壇』2022年7月号

樹も井戸も老いにけらしな烏羽玉の暗色のみづしづかに湛ふ 渡英子 (詞書:一すぢに椿がもとゆこの井戸の水は湧きいづ昔ながらに 古泉千樫) 千樫の生家跡を訪ねた際の歌。とても調べのいい歌。意味的には、古い井戸が残っていたというのみだが、歌の姿の良さに心を惹かれた。

避妊薬(ピル)飲まねば身ごもる恐怖残るのみ 抉られたその傷は見えずに 前田康子 レイプ被害が続くウクライナにピルが届けられたニュースを詠む。妊娠したらどうしようという恐怖に隠れてしまい、どんな傷を受けたかが後回しになってしまう。心の傷は生涯残るかも知れないのだ。

シャボン玉くらいの木漏れ日 泣くことで消えゆく哀しみこの頃あらず 前田康子 上句の淡い景が下句の心情に合っている。下句は「あらず」と言っているが、最近は、泣いたぐらいでは消えない強い哀しみが「ある」と示唆している。泣いて済んでいた日々はもう帰って来ないのだ。

④特集 短歌の中の造語の魅力 小池光「茂吉『つきかげ』にみるいくつかの例」
三年のあひだ見ざりし焼都市の見附より葬送行進の曲
その音はあるときにわが身に沁みぬ地下道電車の戸のしまる音

 小池は茂吉の歌を引き「焼都市」や「地下道電車」などの造語の魅力を説明する。茂吉専門家とも言うべき小池の面目躍如の文章。とても面白く読んだ。茂吉の造語は普通にある語にスレスレのところにある。言われてみれば「焼都市」も「地下道電車」も言わない。でも造語だ!と言われない限り見過ごしてしまいそう。茂吉の言語に対する執着の結実なのだ。

⑤「対談 佐佐木幸綱×坂井修一」 面白いと思った発言を拾ってゆく。
佐佐木〈山本健吉さんが定型詩には究極の理想形があるはずだ、と言っている。(…)なにが究極かと言うと、音楽だけあって意味がない。すごく充実した音楽によってその意味が凌駕されてしまう。意味が忘れられちゃうくらい充実した音楽空間が定型詩の究極形だというんだね。〉
 私自身は読む時にとても意味にとらわれる方なので、こういう意見は心して聞いておきたい。例歌も聞きたかった。

⑥「対談」
佐佐木〈もっと言えば、明治末に「梁塵秘抄」が発見され、大正十三年に「琴歌譜」が発見・紹介されて、古典時代の詩歌の音楽面が意識化されたことが影響したのかもしれないと思う。意味ばかり重視するんじゃなくて、音楽が優れている短歌をみんなで認めようって流れがあったんだと思う。〉
 大正の「赤い鳥」の影響を短歌が受けた、という話の流れで。
 「梁塵秘抄」などを「発見」されたという認識がいいと思う。古典の一部は脈々と伝わってきたというより、途絶えていたものがある時期に発見された、という認識だ。

⑦「対談」
佐佐木〈あとオランダはスケートね。冬は運河が凍るからスケートでどこまでも行ける。(…)弁当とかをリュックサックで入れて、一家でスケートで一日がかりの遠足をする人もいた。オランダの面積は九州と同じと言われている。だから半分は無理にしても、かなりの距離を一日で行ける。スケートでね。〉
 家族で九州の半分くらいの距離をスケートで…。それはスケート競技強いよね…。こういう話は読んでて楽しい。実際に住んだ人でないとなかなか出来ない話だ。

⑧「対談」
佐佐木〈オランダは人間が土地を作ったでしょう。大きな木はあるんだけど、古い木はない。三十年くらいで大きくなるんだよ。日本みたいに三百年、五百年の木なんか一本もない。ああいうところにはアニミズムは芽生えないだろうと思う。〉
 古い木があって当たり前というのは日本的感覚ということなのだな。これも海外から見てみないと分からないことだと思う。視点の相対化ということを考えさせられた。

⑨藪内亮輔「時評 人生派と言葉派について」
〈「人生派」を批判しているつもりもないし、そもそも「人生派」というカテゴリーの存在証明についても、(私自身はこのような言葉を遣わないから)今のところ興味がない。〉
 私自身は「人生派」という言葉を使っている人を藪内以外知らない。藪内自身が、人生派という言葉を遣わない、そのカテゴリーの存在証明に興味がない、と書いているのを読んで戸惑った。では誰が人生派なのだろう。そもそも人生派などという「派」があるのだろうか。批判しているつもりはない、というが、存在証明できないものを批判できるはずもない。「言葉派」を特化するために対立概念として案出されたのが「人生派」という言葉なのではないか。誰だってその人の人生を生きているし、言葉を遣わずに歌を詠むことはできないので、この二項対立はどう考えてもおかしい。特化したいなら違う言葉を遣ってもらえないものか。「言葉派」は大き過ぎる。

⑩藪内亮輔「時評」
 この時評の後半になると藪内は人生派と言葉派という腑分けを否定するような口ぶりになって来る。この用語を定着させるために前月今月の時評を書いているのかと思っていたのだが、違うのだろうか。
〈自らの実人生における実感を素直に表出する、そしてそのように読むというコード(近代的リアリズム)を「人生派」と揶揄するのであれば(…)自らに言葉という呪いの刺青を刻印する者たちもまた、人生について語っている「人生派」の一部であろう。〉
 前半ではカテゴライズできないと言っていたが、どうやら近代的リアリズムを人生派と位置づけているようだが、それは藪内以外の誰かがそう「揶揄」している、そしてそれに対して藪内は反対している、という理解でいいのだろうか。自称言葉派も人生派の一部だ、と言っているように読める。「言葉派」という用語を、批評用語として肯定しているのか否定しているのか、読んでて分からなくなってきた。

⑪ 吉川宏志「源氏物語須磨」〈源氏の恋心は決して一人の女性だけに向けられるのではないことを、念を押すように描いています。別離を単にドラマチックな話にしたくない、人間の心の濁りも残らず書きたいという紫式部の意志があるように感じます。〉
 須磨へ行く前に紫上と悲しい別れをした源氏が、関係のあった女房にも会いに行くことに触れた文。源氏の行動は現代の目からすれば、確かに吉川の言う通り、「呆れた好色ぶり」であり、紫式部の筆は容赦の無いリアリズムだったと思われる。しかし源氏の行動は現在の目からは本当に理解しがたい。
 これを女房クラスの女性にも気遣いを忘れない「イイ話」として書いた可能性は無いだろうか。身分のある女君同士は嫉妬し合っても、侍女たちが相手だと子供を産んでいてもあんまり気にしてないように見える。無視してもいい相手だけど彼は優しいから…みたいな。

子へのべる手はどこからかほそき蔓つかまらずからみつかずにゆれる 古谷円 自らの手を細い蔓のように感じている。子につかまったり、絡みついたりしないように自制しているが、やはり蔓というのは本来的に絡みつくもの。その矛盾にリアリティがあり、心に沁みる。

⑬後藤由紀恵「短歌フォーラム報告」〈着用した防護服の写真なども紹介してくれた犬養楓の「短歌に出来ることは現実を切り取って歌に残すこと」という発言が、コロナに対して閉じていた私自身の心に現実を突きつけられたような気がした。〉コンパクトにまとめられている報告記。
 医療現場の作者の歌や言葉はやはり重みが違う。短歌で切り取っておかなければ残らない現実、後に歴史、が必ずあるはずと思う。

2022.7.12.~15.Twitterより編集再掲