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角川『短歌』2022年10月号

①山下翔「うたよみの水源」〈『思川の岸辺』は、自分の声で録音したのをスマートフォンに入れて、折々聞いていた。〉これはすごい。書写するというのは、よく聞いた話だが。声を録音するわけですね。機器の発達と言えば身も蓋もないけれど。それには収まらないリスペクトがある。
 〈小池光のうた作りにおいて、あるいはひとりの師として斎藤茂吉を考えてみることはできないか、とおもった。(…)もちろん、ことばばかりではなく、題材の部分にもかようところはある。しかし、こういう本歌取りとはまたちがった、ことばや表現の引きとりかたがあるのだなあ、とおもう。(…)それは茂吉の万葉摂取にも、似たものを感ずる。〉小池光が斎藤茂吉を追求していたことは間違いないし、茂吉が万葉集を追求していたことも、はるかに過去を振り返る視線になるが、間違いない。

②山下翔〈師系(といってもここに書いたものはすべて勝手気ままな妄想にすぎないのだけれども)をたどることは、うた作りにおいて、おおいに刺激的である。
八月二日ゆふまぐれみんみん鳴くただひとつ鳴く入日にむきて 斎藤茂吉
うつくしきカナヘビが石のうへにゐる五月三日の真昼ひととき 小池光
さくらの葉がひたすら闇を深くする六月三日起きて歩けば 山下翔

何となく前から山下翔は小池光っぽいというか、小池光を意識してるなーと思ってた。

③鈴木加成太「時評」〈(…)比喩の技法は、それ自体が知的な思考に依っており、詩情を帯びやすい。そして、その比喩を敢えて詩情へ向けないという方法で豊かさのニュアンスを打ち消す表現が、近年の短歌で特徴的に見られるように思う。〉鈴木はその例に奥村知世『工場』と山木礼子『太陽の横』を挙げている。 〈奥村が労働を、山木が子育てを詠むにあたって用いた、詩情を敢えて打ち消す表現は、現代の社会や生活の中で既に豊かさが失われていることを前提としているのではないか。そして、その社会や生活をリアルに描こうとすると、詩情は、現実にはそぐわない嗜好品のような要素となってきているように思われるのだ。〉  
 この時評のタイトルは「詩情という嗜好品」。私は奥村の『工場』や山木の『太陽の横』を、何度も読みたい歌集と思っていたが、鈴木の指摘するような面に惹かれていたのかも知れない。

④鈴木加成太「時評」〈さらに進んで、近年の短歌における口語とリアルの追及も、豊かさを醸し出す詩情に対する羞恥や不審から来ていると言えるのではないか。前回の時評で扱った「~(し)てくれる」、「~(し)たい」という、詩としてではなく、生身の感覚をより繊細に再現するための表現も、それと無縁ではないように思うのだ。〉これも鋭い指摘だろう。何が「詩・詩情」で、何がそうでないかは、読者の個人的感覚に依る部分もあるだろう。色々考えさせられた時評だった。

2022.11.13.~14.Twitterより編集再掲