河野裕子『桜森』14
しばらく中断していた河野裕子『桜森』の歌評をまた続けていきたい。河野の歌は私にとって護符のようなもの。しかし読む時はがっぷり組んで、全身で立ち向かわなければならない。
石の上(へ)にぶ厚き尻をのせてをりめぐりたんぽぽの黄の花ばかり 野原の真ん中の石に腰かけている。自分の回りはたんぽぽの黄の花が広がっているばかりだ。「尻」という直接的な名詞とそれを「ぶ厚き」とやや戯画化して描く。飾らない日常詠。一連の他の暗い歌と対照的だ。
夕暗む人界に立ち吹雪きゐる無慙にしろき桜一木 「無慙なり」には「罪を犯しながら恥じない」「残酷だ」など幾つか意味があるが、割と普通の「気の毒だ」「いたましい」と取った。「いたましいほど白い」桜、と取る。むざんに、と読ませたいか、むぞうに、と読ませたいかは不明。
本来なら人間の世界よりもっと違うところにいるはずの桜が、夕闇の中で花を散らしている。風が吹いて、花吹雪のようだ。その白さはあまりにも白く神々しいが、同時にいたましく、見るのが辛く感じられる。人間界にいる作者自身の苦しみを投影してもいるのだろう。
鏡面の中の暗がり歩み来る首ひとつ高く背後の君は 主体は鏡台の前に座っている。髪を梳くか、化粧をしている。その後ろの暗がりから君が近づいて来るのが見える。君は背が高く、首の分だけ鏡からはみ出している。首の無い身体が近づいてくるようだ。日常の一コマを異化する視線。
やはらかな括(くび)れ括れに眼はゆきて壺はまどかな空洞(うつろ)の器 曲線の美しい壺、その括れ部分を視線が辿る。曲線を以ってまろやかに包んでいるものは空洞なのだ。壺は空洞を入れる器。「うつろ」というルビで、一層の広がりが出ている。人体のことか、とも思わせる。
ほしいまま雨に打たせし髪匂ふ誰のものにもあらざり今も 雨に打たれた髪が匂う。体臭も混ざった生きている者の匂いを、心地良くまた当然のものとして嗅ぐ。髪も自分自身も誰のものでもない。この気持ちは主体の持つ、愛する人と一体化したい思いと矛盾しない。「今も」、が強い。
「雨に打たせし」と、雨に濡れたことを自分の意志として言う。愛されることを求めながら、愛されることにおいても主体的なのだ。
暗緑の髪ゆりあげて炎天を行くとき蜥蜴のやうなる孤り 蜥蜴も河野短歌のキーワードの一つ。ネガティブな場面で使われがちだが、ここでは孤高のイメージ。炎天に、ぎらつく暗緑色の背中をさらし、首を高く持ち上げる蜥蜴。それを意識しつつ、自分の豊かな髪をかざすように歩くのだ。
2022.6.21.Twitterより編集再掲