河野裕子の喜怒哀楽

寂しさを底に秘めて      


 河野裕子の歌を通読していくと、寂しさが歌の基盤になっていることに気づく。激しい感情を詠っていても、喜怒哀楽に収まらない微妙な感覚を詠っていても、歌の底には根源的な生の寂しさが感じられるのである。それを踏まえつつ、以下に喜怒哀楽の歌を見ていきたい。
  われを呼ぶうら若きこゑよ喉ぼとけ桃の核ほどひかりてゐたる 『森のやうに獣のやうに』
  抱擁のきはまるうつつ巻き緊めし髪わらわらとゆるみ始めつ 同
  焼けおつる橋かも恋は赫あかと背後煽られ汝へ架くる腕 『桜森』
  火の中に火よりも熱く焼かれゐる壺のくるめき抱かれてわれも 同
 まず「喜」として、恋愛と性愛の喜びのような、一瞬の高揚感を詠った歌を挙げた。恋人の喉仏を「桃の核」という手触り感のあるものに喩え、巻いた髪がほどける様子で、抱擁による感情の昂ぶりを表す。焼ける橋、窯で焼かれる壺という比喩も、強く激しい喜びを表現し得ている。
  逆光に耳ばかりふたつ燃えてゐる寡黙のひとりをひそかに憎む 『森のやうに獣のやうに』
  とかげのやうに灼けつく壁に貼りつきてふるへてをりぬひとを憎みて 『桜森』
  君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る 同
  真剣に子を憎むこと多くなり打つこと少くなりて今年のやんま 『はやりを』
 「怒」もまた激しい感情である。二十代三十代の頃は憎む歌をたびたび詠んだが、何を憎むのかは詠わない。逆光の中の耳や灼けつく壁など熱を感じさせるものと自分自身を並べて描くことで、その強い感情を増幅させる。強く逞しい母は河野のイメージとしてよく用いられるが、強さよりはむしろ自分の激情を持て余す、繊細な心を読み取りたい。激情は時に大きなやんまなどにも投影されている。
  子供らは大きくなりゆく母を呼ぶこゑの稚さわれに残して 『紅』
  限りなく花火の揚る明るさのもののはづみに死ぬなり人は 『家』
  さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり 『歩く』
  病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ 『母系』
 「哀」には生きることの寂しさを詠った歌を選んだ。これこそ河野の本質だろう。愛する子供たちが成長して離れて行く寂しさ、華やかな花火の中に偶然のような死を思う孤独感、夜の駅の光に照らされる雪に象徴される生の儚さ、失った健康を土の匂いがしたようだったと哀しむ気持ちなど、歌から生の寂しさが感じ取れる。
  月面の山脈(やまなみ)あをくうるめると髪のびそめし子を抱き上ぐ 『桜森』
  いつもどこかすこし汚れてゐる子らのぬくとき匂ひぬくとき手足 『はやりを』
  豆ごはんの中の豆たち三年生、こつちこつちと言ひて隠れる 『季の栞』
  どの猫もわたしが好きにきまつてゐる尻つぽ立ててゑのころ草の中 『庭』
 「楽」には落ち着いた幸福感を表す歌を選んだ。月を子供に見せながら、月面の山脈が青く潤むと美しく把握し、子供の身体は温かい匂いがすると捉える。単純な愛情表現ではないのだ。ごはんに見え隠れする豆を小学生に見立てて愛でる気持ち、全ての猫に好かれているという確信。どちらの歌にも物や動物と一体化する河野の特徴が表れている。
 河野裕子を「家族の歌の歌人」とだけ位置付けていれば、その本質を見誤る恐れがある。家族を詠った歌が多いのも、実はその寂しさゆえに家族へ強い愛を向けたためではないだろうか。

2020.2.角川『短歌』